粥田庄(読み)かいたのしよう

日本歴史地名大系 「粥田庄」の解説

粥田庄
かいたのしよう

庄名は古代の鞍手郡粥田郷(和名抄)を継承し、現在の鞍手郡宮田みやた町を中心に同郡鞍手町・小竹こたけ町・直方のおがた市・嘉穂かほ頴田かいた町、加納分を含めると北九州市南部にまで広がっていた。宮田町本城ほんじようは当庄の本庄に由来する地名とみられ、同町竜徳りゆうとくの字粥田浦かいたうらは当庄の遺名と考えられる。紀伊高野山金剛三昧こんごうざんまい院領。本家は六勝寺の一つ成勝じようしよう(現京都市左京区)で、京都仁和寺御室門跡が管理。建久八年(一一九七)頃の建久図田帳によれば、本庄八〇町、加納六〇〇余町で、加納のうち、のちに有木あるき(現宮田町)感田がんだ(現直方市)楠橋くすばし野母のぶ(野面、現北九州市八幡西区)の計三九〇町が独立したため、金剛三昧院領となったのは二九〇余町であったという(正中二年四月五日「鎮西下知状」金剛三昧院文書/鎌倉遺文三七、以下断りのない限り同文書)

建久三年一一月一一日の将軍家政所下文案(太宰管内志)によれば、当庄地頭の貞清の子息らは、宇佐宮課役を対捍したため地頭職を停止され、代りに時員(宇都宮時貞)が地頭に補任された。これより先、保元元年(一一五六)当地を名字とする大宰府府官の粥田経遠は合原あいのはら(現久留米市)平恒ひらつね(現穂波町)潤野うるうの(現飯塚市)三ヵ村の所領を六勝寺の一つ延勝えんしよう(現京都市左京区)寄進したとされ(宇佐大鏡)、当庄の成勝寺への寄進も経遠によるものか。文治元年(一一八五)頃は成勝寺領で、山鹿家長(経遠の子か)が支配していたという(文明一一年正月日「粥田庄庄務頼順注進状案」高二)。ただし経遠の子山鹿秀遠は治承・寿永の乱で平家方に付いていることから、おそらく家長も平家方に加わり、当庄は平家没官領として没収され鎌倉幕府領となったと考えられるので、家長の支配は文治より今少し以前であろう。その後当庄などの所当二〇〇石が源頼朝から紀伊高野山一心院の護摩用途として寄進されたという(延応元年二月八日「太政官牒」高野山寂静院文書/鎌倉遺文八)。しかしこれは得分の収取のみで、当庄預所職は山城建仁けんにん(現京都市)の所務であった。このため金剛三昧院二代長老隆禅は幕府に訴え(宝永五年以前「金剛三昧院住持次第」高二)北条政子から当庄の預所・地頭両職が金剛三昧院の大蓮覚智に寄進され(宝治元年八月一七日「関東御教書案」鎌九など)、貞応三年(一二二四)粥田本・粥田新両庄が高野山金剛三昧院および多宝塔料として与えられている(同年九月一八日「関東下知状」鎌五)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報