宗像氏(読み)むなかたうじ

改訂新版 世界大百科事典 「宗像氏」の意味・わかりやすい解説

宗像氏 (むなかたうじ)

筑前国宗像郡の宗像大社(現,福岡県宗像市)の大宮司家。筑紫豪族大和朝廷と交渉のあった宗像君の子孫とされる。宗像君の出自については,大国主命の6世の孫吾田片隅命の子孫とする《新撰姓氏録》の説,天神の御子大海命の子孫とする《西海道風土記逸文》の説などがある。宗像君は684年(天武13)に朝臣の姓を賜った。698年(文武2)には宗像郡司に限り3親等以上の者の連任が許されており,宗像氏が郡内において着々その地位を確立しつつあったことがうかがえる。709年(和銅2)宗像朝臣等抒が宗像郡の大領に任じられており,さらに738年(天平10)宗像郡大領宗像朝臣鳥麻呂は宗像神主でもあった。宗像氏は宗像神社の神主であるとともに郡司として行政執行権をも兼帯していたのである。また奈良時代から平安時代初期にかけて宗像氏一族は宗像神を奉じて大和,山城河内にも移住している。ところが桓武天皇は祭政分離による綱紀粛正を意図し,800年(延暦19)宗像氏による大領と神主の兼帯を停止した。以来宗像氏一族の中で郡の大領に補せられる者と神主に補せられる者は分かれることになった。その後979年(天元2)宗像大宮司職が置かれることになり,宗像氏能が初代の大宮司職に補任された。以後1586年(天正14)宗像氏貞の死によって宗像大宮司宗家が断絶するまで,代々大宮司職を世襲した。この間鎌倉幕府成立後は鎌倉御家人となり,社領の経営に努めて在地領主として発展した。1313年(正和2)宗像氏盛によって制定された《宗像氏事書》は,在地領主としての宗像氏の姿を浮彫にしている。武士化した宗像氏はしばしば合戦に参加しているが,36年(延元1・建武3)西下して来た足利尊氏,直義が宗像氏範の大宮司館に入り,その援助多々良浜の戦菊池武敏の軍を破ったのをはじめ,戦国時代には大内氏,毛利氏に属して大友氏と戦っている。また室町時代には朝鮮貿易にも従事した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宗像氏」の意味・わかりやすい解説

宗像氏
むなかたうじ

筑前国宗像郡田島(たじま)(現、福岡県宗像市田島)にある宗像神社(現、宗像大社)の大宮司(だいぐうじ)を世襲した家。古代豪族胸肩君(むなかたのきみ)の子孫といわれ、8世紀ごろまでは神主職(かんぬししき)と宗像郡司(ぐんじ)を兼帯していたが、979年(天元2)、宗像氏能(うじよし)が大宮司に補任(ぶにん)されて以来、代々一族によって宮司職を世襲した。鎌倉幕府が成立すると鎌倉御家人となり、所領所職(しょりょうしょしき)の安堵(あんど)を受けている。そこで大宮司としての職務を勤めながら、鎌倉御家人としての活動も顕著である。南北朝時代には、足利幕府方として活動している。戦国時代になり、大内氏の勢力が筑前国に及ぶと、その支配下に属し、充行(あておこな)われた所領にちなんで、一時期黒川(くろかわ)氏を名乗ったこともあった。1586年(天正14)、宗像氏貞(うじさだ)が死没したことによって、大宮司としての宗像家は断絶したが、江戸時代末に復活した。

[瀬野精一郎]

『宗像神社復興期成会編『宗像神社史』上・下巻、付巻1巻(1971・宗像神社復興期成会)』『宗像大社文書編纂刊行委員会編『宗像大社文書』第1巻、第2巻、第3巻(1992、1999、2009・宗像大社復興期成会)』

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世界大百科事典(旧版)内の宗像氏の言及

【田霧姫命】より

…〈道〉とは海路を示し〈道主貴〉とはその航路の神をいう。本来,タキリビメは3神を祖とする宗像氏に斎(いつ)き祭られていた漁業をつかさどる水の神であった。ムナカタとは〈ミナカタ(水潟)〉の意で,水の神を斎くことに関連する。…

※「宗像氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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