八部郡(読み)やたべぐん

日本歴史地名大系 「八部郡」の解説

八部郡
やたべぐん

摂津国の郡名。古代から存在し、明治二九年(一八九六)武庫むこ郡の一部となり消滅。「和名抄」東急本、「拾介抄」などは「八田部」につくる。東急本国郡部の訓は「夜多倍」で、「延喜式」の諸処にみえる振り仮名も「ヤタヘ」である。古代から近代まで摂津国の最西部に位置し、東は兎原うはら郡、北は有馬ありま郡および播磨国美嚢みなぎ郡、西は同国明石郡に接した。六甲ろつこう山地の南から南西にかけての山麓に宇治うじ川・妙法寺みようほうじ川・千森ちもり川・いちたに川などの小河川によって形成された堆積平野に展開し、南は大阪湾によって限られた狭長な平地。現在の行政区画では神戸市中央区の西半(旧生田区地域)、兵庫区・北区の一部、長田区・須磨区の全域にあたる。

〔古代〕

もと雄伴おとも郡という。天平一九年(七四七)二月一一日の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(法隆寺蔵)に「摂津国雄伴郡」とみえ、大和法隆寺が郡内に二ヵ所の庄と、郡内宇治郷に東を弥奈刀みなと川、南を加須加多かすがた池、西を凡河内寺おおかわちてら山、北を伊米野ゆめのに限られた宇奈五うなご岳という山林を所有していた。「摂津国風土記」逸文(釈日本紀)に「雄伴の郡、夢野あり」「雄伴の郡、波比具利岡」とみえる。「住吉大社神代記」には兎原郡について「元名雄伴国」と記され、さらに古くは同郡とともに雄伴国と称されたと考えられる。八世紀の初めには荒田あらた郡とよばれたとされる(→荒田郡。雄伴郡の郡名を改めたのは淳和天皇の諱の大伴を避けたと考えられ、弘仁一四年(八二三)四月二八日大伴氏は諱を避けて伴氏と改めている(日本紀略)。「和名抄」名博本には天長九年(八三二)「割菟原郡為八部郡」とあり、八部郡が兎原郡より分割されて設置されたように記されている。両郡の境界線が八世紀には現中央区の宇治川流域に、一〇世紀頃には現神戸市灘区の敏馬みぬめ神社付近にあったと考えられることを勘案すると、九世紀前半にいったん兎原郡に合併され、その後郡名を改めて再置されたとも推測される。

郡名は「続日本後紀」承和五年(八三八)三月六日条に、摂津国八部郡の公田・乗田二一町を後院勅旨田としたとみえるのが早い。「和名抄」は八部郡に生田いくた・宇治・神戸こうべ・八部・長田の五郷を記す。養老令の基準では下郡(「令義解」戸令定郡条)。「延喜式」神名帳には八部郡三座として生田神社・長田神社・「ミヌメノ神社」の三社をあげる。うち生田・長田の二社は大社である。条里は兎原郡との郡界を現灘区の西郷にしごう川あるいは現灘区と現中央区の境界線とみる説と、旧みなと川すなわち現兵庫区の新開地しんかいち通とする説のどちらをとるかで見解が分れるが、前者をとると東端の三ないし四条が東へ一〇度偏し、その他の条里線はほぼ南北線に一致して現須磨区の東須磨に至る(神戸市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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