15世紀から17世紀にかけて,日本と中国の明との間で行われた貿易。勘合貿易と俗称されている勘合船による貿易と,倭寇(わこう)などによって行われた密貿易とがある。足利義満が明との通交開始に成功したのは,15世紀の初め博多商人肥富(こいつみ)が明から帰って通交の利を義満に説いたのが原因であったという。遣明船は150年間に19回ほど派遣されたが,1404年(応永11)以後は明の礼部で発行した渡航証明書の勘合を所持することを義務づけられた。1回の渡航船は3~9隻,3年に1度くらいの割合で渡航した。乗員は1船150~200人くらいだが,内訳は外交使節としての官員と船の運行にあたる水夫とが合わせて40~90人くらいで,他は従商人であった。使船としての性格とともに貿易船の性格の強いものであったことを示している。遣明船の貿易には,進上品とそれに対する頒賜という形で行われる進貢貿易と,乗員が行う公貿易および私貿易の3種類があった。
進貢貿易では,日本国王(足利将軍)から馬,刀剣,硫黄,鎧,瑪瑙(めのう),硯(すずり),金屛風,扇,槍等を献上し,羅,紗,綵絹等の高級織物と白金,銅銭,工芸品などを頒賜された。銅銭は義満時代の頒賜品に多く,日本の貨幣経済に大きな影響があった。しかし,応仁以後になると中国で得た銅銭を私貿易によって中国商品に替えて持ち帰ることが多くなり,16世紀の初めには,日本から逆に中国銭を持ち出して中国商品を購入して帰るようになった。
公貿易は,遣明船の搭載貨物について明の政府と取引するもので,刀剣,硫黄,銅,蘇木(そぼく),扇,蒔絵漆器,屛風,硯等が輸出され,対貨として銅銭,絹,布等が支払われた。刀剣の数量は莫大で,1度に3万余が取引されたこともあった。私貿易は,遣明船の乗員が所持した私的な貨物について行われる貿易で,寧波(ニンポー)の牙行(がこう)(特権商人)との間の牙行貿易,北京の貿易場である会同館の貿易,北京から寧波へ帰る途中の沿道で行われる貿易の3種があった。輸出品も輸入品もだいたい公貿易にならったものであったが,投機的な色彩が強く,したがってその利益も大きかった。
遣明船の派遣が途絶してからは,倭寇の密貿易によって多くの中国の物資が日本にもたらされた。倭寇の構成員は大部分が中国人で,日本人が占める割合は1~3割程度であったというが,王直(おうちよく)などは根拠地を日本の五島におき,大船団でしばしば中国大陸沿岸におもむいて密貿易を行った。鄭若曾の《籌海(ちゆうかい)図編》の〈倭好〉は日本人が欲した商品すなわち輸入品を示したものであるが,生糸,糸綿,布,綿紬,錦繡,紅線,水銀,針,鉄錬,鉄鍋,磁器,古文銭,古名画,古名字,古書,薬材,氈毬,馬背氈,粉,小食蘿,漆器,醋をあげている。これに対し,日本から輸出したのは銀である。当時東アジアの経済を支配していたのは銀であるが,戦国時代における日本国内の銀生産の急増がこれに対応したのである。ポルトガル船の日本来航の目的の一つは日本銀の獲得であった。
執筆者:田中 健夫
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14~17世紀の日本と中国の明との貿易。日本国王(懐良(かねよし)親王・足利将軍)の名義で派遣された遣明船(勘合船)による貿易と,倭寇(わこう)などによる密貿易がある。遣明船は,1401~1547年(応永8~天文16)に19回派遣され,1404年以降の17回は勘合の所持を義務づけられた。貿易形態は,日本国王・遣明使の朝貢品と明皇帝の回賜(かいし)品の交換のかたちで行われる進貢(朝貢)貿易と,遣明船の乗員による公貿易・私貿易の3種類がある。進貢貿易は,馬・刀剣・硫黄(いおう)・硯・扇子・屏風などを献上し,羅・紗などの高級絹織物,白金や巨額の銅銭などが回賜された。公貿易では,遣明船の付搭(ふとう)貨物(国王付搭品)を明政府と貿易し,刀剣・硫黄・銅・蘇木(そぼく)・蒔絵(まきえ)漆器などを銅銭・絹・布などと交換。刀剣は大量に輸出された。私貿易は,遣明船乗員の私的な貨物を中国商人らと取引した。寧波(ニンポー)の牙行(がこう)との貿易,北京(ペキン)の貿易場の会同館(かいどうかん)での貿易,北京から寧波への帰路の沿道で行われる貿易の3種類がある。輸出品は公貿易と同じ。輸入品は生糸・絹織物が主流で,ほかに麻布・薬種・砂糖・陶磁器・書籍・書画・銅器・漆器など。遣明船途絶後,中国からの渡航船や倭寇との密貿易で,中国の物資が多く日本に運ばれた。日本からは銀が大量に輸出された。
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室町時代に行われた勘合貿易の慣習的な呼称。日本と明国との貿易の意。
[編集部]
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…広島県東部,瀬戸内海に面した港湾商業都市。1870年(明治3)久保,十四日(とよひ),土堂の3町が合体して尾道町となり,98年県下で2番目に市制を施行する。人口9万3756(1995)。市域の大部分は標高100~300mの丘陵性山地であるが,市街地は幅300mの尾道水道に面して東西に細長い。尾道の名も,町並みが海に迫る〈山の尾〉のすそをはう〈道〉に由来する。尾道の生命は港であり,歴史もそこから始まる。…
…応永末年に渋川氏が没落すると,大内氏と少弐氏の間で博多支配をめぐる激しい抗争が続いた。15世紀中期には博多は大内教弘によって掌握され,大内氏はここを拠点として日明貿易にのりだした。15世紀後半から16世紀前半にかけて,博多は大内氏の遣明船派遣の拠点となった。…
…中国,朝鮮,琉球,東南アジア等,海外への窓口であった博多には商人群が形成され,しだいに外国との貿易に従事して,東アジアを舞台に活躍した。日明貿易においては,足利義満に明への通交を勧め,みずからも初回の遣明副使となった肥富(こいつみ)は博多商人とされているし,大内氏の勘合貿易を担ったのは,奥堂氏,神屋氏,河上氏,小田氏といった博多商人であった。神屋寿禎は大陸から先進的な銀の精錬技術を輸入し,石見銀山の開発に利用したといわれている。…
※「日明貿易」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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