六地蔵町(読み)ろくじぞうちよう

日本歴史地名大系 「六地蔵町」の解説

六地蔵町
ろくじぞうちよう

[現在地名]伏見区桃山ももやま町〈大津町おおつまち新町しんまち中島なかじま町・西町にしまち東町ひがしまち町並まちなみ見附みつけ町〉及び宇治市の一部

近江と大和を結ぶ交通の要衝として早くから開発され、古くは木幡こはた里に属すという。軍事的施設として交通の要衝地に設けられる関があって、木幡関(位置については明確にしがたい)として知られた。「拾遺都名所図会」に「木幡金辻 六地蔵町より宇治に至る札の辻なり、六地蔵といふは後世の異名にして、みな木幡里なり、木幡の関并関守屋敷旧跡、六地蔵大善寺の西北の山上にあり、今、関山といふ又木幡峠ともいふ」とある。

六地蔵は大津や宇治・奈良との中継点であっただけではなく、京都から伏見を経て奈良への道が、この地を通っており、また山科やましな川(ひつ川)が六地蔵の中央を貫流して、巨椋おぐら池・宇治うじ川を通じて、よど川や木津きづ川ともつながる水運上の要地でもあった。伏見の発展や水運の開発が進むほど、六地蔵の重要性が広く認識された。

地名由来も、交通上の要地であったことと関係する。「源平盛衰記」に京廻りの七ヵ所の地蔵があげられているが、そのなかの木幡里の地蔵が、大善だいぜん寺の六地蔵にあたる。古来、病気とか悪霊は、道路をつたって町に入ってくるものとの考えがあり、諸国・諸地方から京への入口にあたる町や村、あるいは町や村のはずれとか峠、岐路などに地蔵尊を祀ることが行われた。京郊の六ヵ所に地蔵を祀ることは、鎌倉・室町時代には行われていたと考えられるが、時代によってその場所に若干の変化がみられ、必ずしも定着しなかったようである。ただ六地蔵という語が、いつ大善寺を中心とするこの地方一帯の地名となったかについては確定しがたいものの、嘉吉三年(一四四三)五月五日、鳥羽とば・伏見・横大路よこおおじ辺りにおいて、印地とよばれる石合戦があり、「新札往来」に「印地を促す、六地蔵之党、動もせば喧嘩を招く条は、尤も然るべからず」とあり、また「尺素往来」にも「六地蔵之党、例の如くに印地を企て、喧嘩を招き候はば、洛中鼓騒に及ぶの条、太だ然るべからざるものなり」とみえる。

六地蔵町
ろくじぞうちよう

[現在地名]岡崎市六地蔵町

岡崎城外堀の東、伝馬てんま上之切かみのきりより南へ南北に通ずる町。南は唐沢からさわ町に通ずる。町の長さ東側一町三九間・西側一町二五間五尺、幅三間二尺。岡崎宿伝馬役町の一。もとは岡崎城外郭内にあり、その頃も唐沢町と接していた。寛永(一六二四―四四)頃の本多豊後守時代の岡崎城絵図(岡崎市史)よこ町続きに記されている。「竜城中岡崎分間記」(中根家文書)に正保四年(一六四七)六地蔵町・祐金ゆうきん町・唐沢町の三つが郭外東の今の地に移ったと記す。町名は六地蔵尊が祀られてあったところから付いた。もとの町のどこに地蔵堂があったのか今は不明である。今の地に移る時、六地蔵尊も移され、町通りに置かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報