六地蔵村(読み)ろくじぞうむら

日本歴史地名大系 「六地蔵村」の解説

六地蔵村
ろくじぞうむら

[現在地名]宇治市六地蔵〈一丁目いつちようめかき町・紺屋こんや町・徳永とくなが奈良町ならまちふだつじ町・町並まちなみ〉と京都市伏見区桃山ももやま町の一部

宇治川支流の山科やましな川下流域に位置し、村の南西界は宇治川右岸に達して、二、三の中州をも含む。近江と大和を結ぶ古北陸道(のちの奈良街道)から、伏見山(桃山丘陵、現伏見区)を越えて京都に至る幹線道路が分岐する交通上の要地として、早く開発された所である。鎌倉初期の作成とされる山城国山科郷古図(彰考館旧蔵)には、「河原崎」の名で記され、宇治郡六条・七条、八里・九里の市辺西里・堅田里・梧本里・柿本里にまたがる区域が、ほぼ当村域にあたる。

集落は街道の分岐点を中心に発達したが、文禄三年(一五九四)の伏見築城以後、宇治川の河港として、また伏見城東南隅に位置する見付として、山科川以西へも拡大されたようである。豊臣秀吉による伏見城下町構想によって、当村域にも武家屋敷が分布したと伝えられ、字徳永(徳永左馬助屋敷)があり、延宝七年(一六七九)紀伊郡六地蔵村検地帳(清水孝男家文書)には多くの武家屋敷地名が記される。


六地蔵村
ろくじぞうむら

[現在地名]栗東町六地蔵

小野おの村の北東、葉山はやま川源流域の丘陵に立地。東海道に沿う街村。条里遺称の七ノ坪の地名が残る。村名は地内地蔵堂にある六地蔵尊によるという。中世当地一帯を高野たかのと称した。「興福寺官務牒疏」に高野多喜たき(田向山)周辺にあった唯心教ゆいしんきよう寺・多喜寺多福たふく寺・楞迦りようか寺を「高野四カ寺」と記す。元亀三年(一五七二)一月二三日の佐久間信盛書下(福正寺文書)には「南郡高野庄」とみえる。これよりさき高野においては福正ふくしよう寺を拠点とした一向一揆軍が六角氏に荷担し織田信長に対立していたが、信長は佐久間信盛を通して高野庄内の一向宗徒・地侍たちに誓紙を提出させ、信長の支配下においた。なお「輿地志略」には高野庄として当村・伊勢落いせおちはやし梅木うめのき今里いまざと小坂おつさかの七ヵ村をあげる。


六地蔵村
ろくじぞうむら

[現在地名]長柄町六地蔵

長柄山ながらやま村の東に位置し、伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一〇六石。元禄郷帳では高一二〇石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数四二、旗本山本領。幕末も同様。六里の椎木しいぎ(現岬町)まで人馬の継立をしていた(天保四年「椎木村明細帳」太田家文書)。享和元年(一八〇一)助郷人馬の触当が不当として内田うちだ(現市原市)などの助郷諸村より訴えられたが、賃銭請取帳が証拠になって勝訴、ただし内田村の村高一千六五〇石余を二千六〇〇石余として人馬負担を求めたのはふらちとされ、問屋名主は科銭五貫文ずつ課された。


六地蔵村
ろくじぞうむら

[現在地名]豊岡市六地蔵

円山まるやま川の左岸、豊岡城下小田井おだい町の北に位置し、対岸は火撫ひなど村。当地は戦国期までのちの小田井町・しも(滋茂)町などとともに一地域を構成し、城崎きのさき(あるいは城崎町)とよばれていたと伝え、下町(現元町)在の光妙こうみよう(現光行寺)に伝わる元亀三年(一五七二)の親鸞絵像裏書に「城崎(郡)城崎村光妙寺」とみえる。慶長一九年(一六一四)豊岡藩主杉原長房によって、円山川湾曲部に悪水抜き短絡水路が掘られたため、当村と小田井町は分断された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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