具志川間切(読み)ぐしちやーまぎり

日本歴史地名大系 「具志川間切」の解説

具志川間切
ぐしちやーまぎり

沖縄島中部東海岸に位置し、現具志川市域にあたる。南東勝連かつちん与那城ゆなぐしく両間切、北西から南西にかけては美里んざとう間切に接し、北東金武きん湾、南で中城なかぐすく湾に面する。中頭方一一間切のうち。「琉球国旧記」「球陽」では具志川郡・具志川県とも記される。「おもろさうし」巻一六の四〇に「一 くしかわの わかおやくに きよらや(具志川の我が御国 美らや)/この いけらわしや(〔「いけいけしや」の誤写〕この賑々しさ)/又 まちらすのかみにしや(マチラス〔神女〕の神様)/こかねおとん なむちやおとん きよら(黄金御殿 銀御殿 美し)」とある。土地賛歌である。首里城より間切番所のある具志川ぐしちやー村までの距離は五里三合五勺六才(五里一二町余)正保国絵図では「具志川ぐしかは間切」とあり高四千七三石余。絵図郷村帳に江洲いーし喜屋武ちやん・かねかだん(兼箇段)・ゑのひ(栄野比)川崎かーさち・あげな(安慶名)てんくわん(天願)・おきん(宇堅)・たば(田場)・ぐし川(具志川)上江洲いーじ・たうはる(仲嶺)・大川うへす(大田)・前てんくわん(前天願)・平良・赤平の一六の村名がみえる。琉球国高究帳によると具志川間切は九ヵ村で高頭四千七三石余、うち田一千五四八石余(うち永代荒地八三石余)・畠二千五二四石余。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳では惣高・田高は同じで、畠二千四五三石余・桑役七一石余となっている。


具志川間切
ぐしちやーまぎり

久米島西部に位置し、東は仲里なかざとう間切。グシチャーと発音する。久米具志川間切とも。久米島二間切の一。うふ岳・富祖古ふーく岳の麓に広がる台地上に村落が形成されている。近世は久米方、近代は島尻郡に属した。当初は仲里間切とともに世子領。尚元王(在位一五五六―七二年)の長子尚康伯が初めて久米具志川王子を称している(「中山世譜」巻七)。尚貞王の世子尚純王は康熙一五年(一六七六)久米具志川で知行高四〇〇石を加封されている(同書巻八)。正保国絵図に具志川間切とみえ、高一千七四六石余。琉球国高究帳でも同高で、うち田一千二六二石余・畠四八三石余。絵図郷村帳・琉球国高究帳にはういー具志川ぐしちやー中地なかち玉那覇たんなは西目にしみ・うふた・兼城かにぐしく山城やまぐしく八ヵ村がみえる。那覇津より具志川間切までの道法は海路四八里(里積記)。康熙一三年具志川間切の惣夫を動員し、せみう山谷水より分水する井溝を開削し、間切内村々に通水した(美済姓家譜)。以降も当間切において井溝や池塘の建設・改修が行われ(「球陽」尚敬王一三年条など)、天水田の改良や平野部での新田開発が進められた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の具志川間切の言及

【具志川[市]】より

…石川市,沖縄市,勝連町,与那城町と隣接し,勝連半島への交通の要地である。古代の具志川間切は,1879年の廃藩置県を経て1908年の特別町村制の施行まで継承され,施行後,具志川村となった。18世紀以降,首里,那覇の貧窮士族が帰農して屋取(やどり)集落という開拓集落を形成したが,具志川ではこれらの士族帰農者が人口の大半を占めた。…

※「具志川間切」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android