具志川村(読み)ぐしちやーむら

日本歴史地名大系 「具志川村」の解説

具志川村
ぐしちやーむら

[現在地名]具志川市具志川ぐしかわ

具志川ぐしちやー間切の南東部、現市域南東端に位置する。東は金武きん湾に臨み、南は勝連かつちん間切南風原へーばる(現勝連町)。グシチャーとよばれる。「おもろさうし」巻一六の四〇に「くしかわ」とみえ、絵図郷村帳には「ぐし川村」とある。琉球国高究帳では「具志川村」と記され、高頭三一六石余、うち田一〇五石余(うち永代荒地一四石余)・畠二一〇石余。なお「中山伝信録」にみえる「安里村」は当村をさしているとみられるが、詳細は未詳。村は現在の集落より北東海浜にある具志川ぐしかわグスクの近くから始まり、蔡温の時代に現在地に移ったといわれる(具志川市誌)。「琉球国由来記」では宮森・城嶽・スカタ嶽・具志川巫火神・グスク嶽之殿の拝所が確認され、具志川ノロが管轄していた。

具志川村
ぐしちやーむら

[現在地名]久米島具志川ぐしかわ

具志川ぐしちやー間切の北部に位置し、東は仲村渠なかんだかり村、南は仲地なかち村。グシチャーと発音する。絵図郷村帳に具志川村とみえる。琉球国高究帳では「上村・具志川村」と併記され、合せて高頭一七二石余、うち田一三六石余・畠三六石余。当村は古くは具志川ぐしかわグスク城下にあったが、落城後「田尻原」へ移動した。ここは仲村渠村集落の西隣に位置し、耕地などは同村と錯綜していたという(久米島具志川村史)。康熙三〇年(一六九一)の久米具志川間切諸地頭作得帳(与世永家文書)によると、久米具志川間切の按司懸(惣地頭)と里主所(脇地頭)が当村に配置されており、采地は前者が田四八石余、後者は田三一石余・畠一一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報