兼城間切(読み)かにぐすくまぎり

日本歴史地名大系 「兼城間切」の解説

兼城間切
かにぐすくまぎり

糸満市の北部にあたる。北は豊見城とうみぐすく間切、東は東風平くちんだ間切、南は高嶺たかんみ間切と接し、西は海に臨む。島尻方一五間切の一。里積記によると首里城から座波ざーふあ村間切番所まで二里五合八才(二里一五町余)

慶長一八年(一六一三)一二月一五日に首里王府から摩文仁(親方安恒)に宛行われた知行目録(南島風土記)に「島尻金城間切」とみえる。琉球国高究帳には島尻兼城間切とあり、寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳では兼城間切となる。絵図郷村帳に当間切に属する加数かかじ・座波・兼城かにぐすく塩平すんじや・「てりや」・「いとまむ」・中城なかぐすく崎中城さきなかぐすく・「いしけ」・「あらかき」の一〇ヵ村がみえる。のちの間切境の変更により豊見城間切から武富だきどうん村・波平はんじや村・阿波根あーぐん村を編入し、高嶺間切へ中城・崎中城の二ヵ村、真壁まかび間切へ伊敷いしき新垣あらかきの二ヵ村を出し、兼城・糸満いちまん照屋ていーら潮平すんじや・座波・賀数かかじ・阿波根・波平・武富の九ヵ村となる(「琉球国由来記」など)正保国絵図では「兼城間切かねぐすくまぎり」の高九七〇石余。琉球国高究帳、寛文の琉球国郷帳でも同高で、うち田五九六石余・畠三七三石余。正保国絵図や正保三年絵図帳写には「豊見城間切之内たから村」の一里山を経て、せなが島(瀬長島)、「づゝ島」(数珠島)の辺りから海岸に降り、豊見城間切境から七町二〇間の所にある「兼城間切之内むくゑる川」の一里山(糸満村白銀岩付近)へと抜け、さらに南下して島尻大里しまじりうーざとう間切の「あいけな島」(エージナ島)へと続く島尻方西海道が赤い線で描かれている。「むくゑる川」は歩渡りとなっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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