出雲備後道(読み)いずもびんごみち

日本歴史地名大系 「出雲備後道」の解説

出雲備後道
いずもびんごみち

出雲国から備後国に至る近世の陰陽連絡道。主要なものは四本ある。東からあげると、(一)は安来町で山陰道から分れ、能義のぎ仁多にた両郡を通過し、王貫おうぬき(現仁多町と広島県高野町の境)を越えて備後国に入る。(二)は(現玉湯町)で山陰道から分れ、大原・仁多両郡を通過し、王貫峠を越えて備後に入る。(三)は宍道(現宍道町)で山陰道から分れ、大原・飯石いいし両郡を通過し、赤名あかな(現赤来町と広島県布野村の境)を越えて備後に入る。(四)は大津おおつ(現出雲市)で山陰道から分れ、飯石・大原・仁多三郡を通過し、備後国三井野みいの(現横田町)に至る。これらのうち(一)と(二)は三成みなり(現仁多町)で合流し、その後同ルートをとる。(四)は三刀屋みとや(現三刀屋町)木次きすき(現木次町)付近で(三)と交差したのち、三成町で(一)・(二)と交差する。出雲隠岐正保国絵図では(二)と(三)が第一等の太い朱線で示されており、近世前期にはこの二本が主要道であった。

〔安来からの王貫峠越備後道〕

(一)の道は安来町から広瀬ひろせ(現広瀬町)を経て飯梨いいなし(旧富田川)沿いに南西に進み、比田ひだ(現同上)亀嵩かめだげ町―三成みなり町―阿井あい(以上現仁多町)から王貫峠を越えて備後国和南原わなんばら(現広島県高野町)に至り、さらに備後庄原・三次みよしなどを経て備後福山・安芸広島などに出る。古代―近世を通じ安来方面からの塩・海産物などと奥出雲の鉄や米などが移動する重要な道であった。この道が最も重視されたのは中世末期富田とだ(現広瀬町)本拠尼子氏が中国地方に覇を唱えた時で、やがて安芸吉田よしだ(現広島県吉田町)に拠る毛利氏が勢力を増大し、この道が両勢力対抗の場となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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