日本歴史地名大系 「判太郷」の解説 判太郷はんだごう 大分県:大分市判太郷判田郷・判多郷とも記す。古代大分郡判太(はた)郷(和名抄)の一部が国衙領として残存したと考えられる。豊後国弘安図田帳には「国領判太郷三十町」とあり、面積が極めて少ない。地頭の名は記されていないが、前行に「国領荏隈郷百六十町 地頭職大友兵庫入道殿」とあり、当郷部分の「同人」が脱落したものとも考えられる。兵庫入道は大友頼泰。比定地については、建長六年(一二五四)六月五日法眼幸秀・頼秀連署契状(志賀文書)に「高国府者、笠和・荏隈・判太郷最中也」とみえることから、笠和(かさわ)郷・荏隈(えのくま)郷に挟まれた高国府(たかごう)と大分川を挟んで対岸の右岸に当たる地域と推定される。また貞治三年(一三六四)二月日の大友氏時所領所職等注進状案(大友文書)・永徳三年(一三八三)七月一八日の大友親世所領所職等注進状案(同文書)には所領の一つとして「同国下郡 号判太郷」とある。 判太郷はたごう 大分県:豊後国大分郡判太郷「和名抄」道円本・高山寺本・東急本ともに判太とみえる。鎌倉時代の豊後国弘安図田帳では国衙領とされ、わずか三〇町の郷であったことが記されるが、本来の郷域は現大分市羽田(はだ)・片島(かたしま)から下郡(しもごおり)にかけての大分川右岸地域と考えられる。しかし同市中判田(なかはんだ)などの地名から、旧大南(だんなん)地区にまで郷域を想定する意見もある。大分市下郡が判太郷内であったことは、貞治三年(一三六四)二月日の大友氏時所領所職等注進状案(大友文書)に「同国(豊後国)下郡 判田郷と号す」(原漢文)とみえるので確実である。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by