津守庄(読み)つもりのしよう

日本歴史地名大系 「津守庄」の解説

津守庄
つもりのしよう

古代大分郡津守郷(和名抄)が庄園化したもので、大分川下流域右岸の現大分市津守・片島かたしままがり鴛野おしの地区一帯に比定される。治承四年(一一八〇)五月一一日の皇嘉門院惣処分状(九条家文書)の九条領中に「ふこ つもり」とみえる。皇嘉門院(聖子)は関白藤原忠通の娘。仁安二年(一一六七)五月二三日に父忠通から所領を譲られているので(「兵範記」同日条)、このなかに当庄も含まれていたものと考えられる。当庄の成立には戸次へつぎ庄、臼杵うすき(現臼杵市)と同じく、関白藤原忠通家司で豊後守であった源季兼が深くかかわっていたと推察でき、もとは摂関家領であった。皇嘉門院は当庄を九条兼実長男で甥にあたる良通に譲ったが、良通が早世したため父兼実が管領した。元久元年(一二〇四)四月二三日、兼実は当庄を御堂御前(良通の妻、藤原雅公の娘)に譲り、女院の一期の後は九条道家に譲ると付け加えている(「九条兼実譲状案」九条家文書)。しかし、建長二年(一二五〇)一一月日の九条道家惣処分状(同文書)にはみえず、何らかの理由で道家には伝領されなかったと考えられる。また正応六年(一二九三)三月一七日の九条家文庫文書目録(同文書)にもみえず、この時期以前に九条家領ではなくなっているが、伝領については不明。

豊後国弘安図田帳には「津守庄百七十町 領家勘解由小路中納言家」とあり、庄内の名として五名九六町、光永みつなが名一六町八段九〇歩・別作二一町七段九〇歩・片島二六町九段大・岩屋いわや二〇町九歩があり、内閣文庫本豊後国弘安田代注進状に恒元つねもと名一〇町三段半三〇歩がみえる。不足分はまがり保四六町一段三〇〇歩、福成ふくなり名二七町八段三〇歩である。勾保は当庄の加納であり、宇佐宮領である。領家の勘解由小路中納言は兼仲に比定されるが、彼は弘安元年(一二七八)近衛兼平の家司となっており(尊卑分脈)、当庄は本家職を九条家、領家職を勘解由小路家が帯していた可能性もある。

〔熊野山領津守庄〕

応永二六年(一四一九)八月二七日の熊野山長床衆衆議状(大友家文書録)によると、当庄はこれ以前に熊野山長床領となっていた。熊野山長床とは山伏など修験者への宿坊提供者のことで、同衆議状によると、熊野山長床衆は守護大友氏と当庄預所職の契約をしていた。しかし大友氏が近年公用銭二〇貫文を納入しなかったので預所職を解任し、京都熊野社智蓮光院(現京都市左京区)の僧宣深法師を預所職として毎年一〇〇貫文を納入させることとした。


津守庄
つもりのしよう

西成にしなり区の津守付近にあった庄園。藤原兼仲の日記「勘仲記」弘安六年(一二八三)八月二日条に、当庄の本家はもと故仲川禅尼であったが、以前禅尼がそれを仙洞に寄進したので院領となり、また領家職は藤原兼仲が祖母から伝領してきた。今日、兼仲に院から津守庄の領家として一円知行するように仰せがあったと記す。しかし、この兼仲の領家職支配をめぐっては、この頃かなり紛争があったようである。弘安三年七月日の津守庄雑掌申状案(勘仲記裏文書)は、多くの欠損があって意味のとりにくい文書であるが、雑掌はこの申状のなかで、兼仲の領家支配に反対する者があって、ここ七、八年年貢の不法・未済分が累積しており「下剋上」の様相を呈していると訴えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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