朝日日本歴史人物事典 「加藤正方」の解説
加藤正方
生年:天正8(1580)
江戸前期の熊本藩重臣,俳人。幼名は清六,のち右馬允と称した。加藤清正の家臣可重の子。知行高1万600石で,慶長17(1612)年より幼少の藩主加藤忠広を補佐して大きな力を持ったが,同じく重臣の加藤美作の一派と争って騒動が拡大し,元和4(1618)年には幕府に提訴されて将軍徳川秀忠のもとで御前公事が行われた。ここで正方側は,さきの大坂の陣のおりに美作一派が大坂城内に兵糧を送るなどしていた事実を暴露,このこともあって美作派は処罰され,以後は正方が熊本藩の実権を掌握した。寛永9(1632)年,藩主忠広の嫡子光広が幕府転覆の密書を発した事件で,熊本にあった忠広と正方は出府し,老中の取り調べに対して弁明して,本事件が光広個人の悪戯にでたものであって熊本藩の組織的行為ではない旨を幕府側に了解させた。同年,加藤家が改易になったのちは片岡風庵と称して京都本圀寺に幽居し,俳諧をよくして談林派の西山宗因と親交があった。
(笠谷和比古)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報