17世紀中期のフランスの内戦。1648年から53年にかけて,パリを中心にほぼ全国的に展開された。17世紀前半,枢機卿リシュリューが進めていた近代的行政国家組織創出の政策はマザランに受け継がれたが,それは長期化する三十年戦争のさなかに進行したため,高等法院を中心拠点とする旧官僚(官職保有者)や伝統的な旧貴族(剣の貴族),そして中央に対する地方勢力と,さらに生存の危機に直面した民衆にいたるまでの社会各層,諸団体の反発を招いた。反発はおのおのの伝統的特権と慣行を維持するための対応であり,それが一挙に表面化したのがフロンドの乱であった。反乱は,パリに始まる初期の〈高等法院のフロンドLa Fronde parlementaire〉(1648-49)と,全国的に波及した〈貴族のフロンドLa Fronde des princes〉(1649-53)との2段階に分かれて展開した。
1648年1月,王政府は戦時の財政危機打開策として,官職の新増設と官職保有者の給与の4年間支払停止の王令を出した。これが官職保有者層の反発をかい,5月13日パリの最高諸院官僚たちは高等法院の主導によって王宮の聖ルイの間に結集し,7月にアンタンダン官僚制と徴税請負制の廃止,直接タイユ軽減要求を含む27ヵ条の国政改革案を示した。これに対しマザラン政権は表面は譲歩を装い,8月26日反政府派の中心人物,高等法院評定官P.ブルーセルを逮捕し反撃に転じた。これを機に一挙に反マザラン運動は高まりをみせ,パリの民衆は28日まで街中のいたるところにバリケードを築くとともに王宮を包囲し(バリケードの日事件),ブルーセルを釈放させた。後退したマザランは,10月念願の三十年戦争の終結を実現すると,ひそかにロクロア決戦の勝者コンデ親王ルイ2世と結び,49年1月,国王一家を脱出させて,その配下の軍隊をもってパリを包囲した。この情勢に加えて,イギリスのチャールズ1世処刑の知らせに動揺した高等法院は結局,3月リュエイユの和約を結んで妥協した。
〈高等法院のフロンド〉後,パリではマザランとコンデ親王一門の権力争いが深刻化してきた。マザランは50年1月,機先を制してコンデ親王,その弟コンティ親王および義兄ロングビル公の3人を捕らえてバンセンヌに投獄した。しかし,中央政局の混迷はノルマンディー,ギュイエンヌ,プロバンス,ブルゴーニュ,リムーザンなどの諸地方に反乱を誘発させた。それは地方の中央に対する反乱であると同時に,地方高等法院,市政庁,州総督などの地方権力の争いでもあった。コンデ派貴族はギュイエンヌのボルドー市を拠点に,この地方の反中央感情を利用し反マザランの抗争を展開した。〈貴族のフロンド〉はまた〈地方のフロンド〉でもあった。この情勢に応じて,パリでは再び高等法院が反マザランの動きを示し,51年2月コンデ親王一門は釈放され,逆に王とマザランがパリから脱出した。51年秋から52年の時期になると,少年王ルイ14世を擁して立ち直った王党派はボルドーを拠点とするコンデ親王軍に迫った。これに対して,コンデ親王はボルドーからパリに進出し,52年7月2日サンタントアーヌ門の戦で王党派に加わったチュレンヌ軍を破り,コンデ政権を樹立した。しかし,政局は依然として不安定でガストン・ドルレアンほかの王族や名門貴族に謀略家ゴンディ,そしてパリ高等法院を加えて錯綜した内部抗争が展開されていた。反乱は,反マザラン感情では一致していたものの,おのおのの利害と野心と陰謀が入り乱れ,離合集散をみせながら散発しつづけた。そのため,コンデ親王はパリ王党派市民の反発を買って52年10月亡命し,ようやく国王はパリに帰った。フロンドの乱の底には,さらに〈民衆のフロンド〉といわれる民衆の活動がみられた。その多くは戦乱に脅かされた住民の生活防衛の抵抗運動であったが,各派の権力抗争に利用,吸収されてしまった。そのなかで,1652年7月ボルドーに独自の市政を樹立した〈楡(にれ)の木同盟Union de l'Ormée〉は,共同体的互助精神と地域の慣行と特権の擁護,平等な市民の政治参加を主張する綱領を掲げて,53年7月まで市政を担当した。これがフロンドの最後の局面であった。
フロンドの名称は,パリの壕でいたずらする子どもの石投げ遊び(パチンコ)に由来しているが,それは当初からこの反乱が無意味な貴族の最後の反抗として過小評価されていた証左である。ルイ14世は幼少期のいまわしい記憶として事件そのものの抹殺を試みている。フランス革命以降,〈失敗した不完全な革命〉という評価が行われたが,現在では,旧官僚による守旧的反動という説,ボルドー楡の木同盟にのみ民主的革命の萌芽があったとする見方,そして政治的・社会的・経済的衰退期にみられる新旧貴族の徒党的無秩序の反乱とする見方まで多様である。いずれにせよ,反乱鎮定後,リシュリュー以来の構想であった集権的行政支配機構は着実に創成されていった。
執筆者:千葉 治男
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フランスのルイ14世の幼少期における高等法院・貴族を中心とする反王権運動(1648~53)。フロンドfrondeとは、当時青少年に流行した石投げ器のことで、それをもじって名づけられたといわれる。運動の根底には、リシュリューの中央集権化政策路線を受け継ぐマザランに対する彼らの不満や、食糧・財政危機に対する民衆の不満があげられる。
高等法院のフロンドFronde(1648~49)は、その第一段階であり、パリ高等法院、会計院、租税院、大評議会の法官たちは、1648年5月より一致してマザランによる既得権侵害に抗議し、国政改革案を示して王権に対抗した。これにはパリとその周辺地域の民衆も同調したが、翌年3月高等法院と王権の妥協が成立した。第二段階は、貴族のフロンド(1650~53)で、高等法院のフロンドの収拾に力のあったコンデ親王一族が、マザラン打倒を目ざし、旧貴族勢力の復権を図った。51年になると、パリ高等法院も貴族のフロンドに合流したので、パリは騒乱に巻き込まれた。成年に達したルイ14世は、コンデ一族との武力対決を続け、反国王派にいたチュレンヌを王党派に引き入れることに成功し、52年9月コンデはパリを離れて亡命した。
フロンドの乱の背景には、局面に応じて民衆の蜂起(ほうき)がみられたが、それは高等法院や貴族のフロンド派によって反王権運動に利用されたにすぎなかった。ルイ14世は、幼少時に体験したフロンドの乱という苦い思い出を教訓として、親政開始後から、高等法院や旧貴族層の政治的特権を剥奪(はくだつ)し、国王絶対主義への道を切り開くことになった。
[志垣嘉夫]
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1648~53年,ルイ14世の幼少と宰相マザランの不人気に乗じ,絶対王政の強化に反抗して起きた内乱。直接の契機は増税にあるが,背景には深刻な経済危機があった。1649年を境に高等法院の反抗を中心とする前期と,王族,封建大諸侯の反乱を中心とする後期に分かれる。農民一揆や都市暴動の頻発と結びつき全国的な内乱にまで至るが,封建諸侯の内紛,彼らとブルジョワジー,民衆の利害の不一致から挫折,結果的には王権の強化に終わった。
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…また,三十年戦争の継続の結果,危機に陥っていた財政を支えるためさまざまな形で租税の増徴をはからねばならず,そのことが民衆の不満を買った。王権に対するこうした反発が48年にフロンドの乱となって爆発すると,マザランは一時ドイツに亡命を余儀なくされるほどの苦境に陥った。しかし,彼は高等法院や大貴族といった特権階層と巧みに妥協することで内乱の平定に成功した。…
※「フロンドの乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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