フロンドの乱(読み)フロンドのらん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フロンドの乱」の意味・わかりやすい解説

フロンドの乱
フロンドのらん
Fronde

1648~53年フランスのルイ 14世幼年期,集権国家体制を目指す中央政権に対する反乱宰相 J.マザランへの反感に新旧官僚の対立,貴族利害からみ合い,さらに中央集権化に対する民衆の反乱が加わり,パリを中心にほぼ全国的な内戦が展開した。フロンドの名称は当時の流行玩具の投石器にちなむ。 48年マザラン政権の政策に反対し,パリ高等法院を中心とする官職保有者層 (旧官僚) は,アンタンダン (新行政官僚) と徴税請負制の廃止,直接税の減税などを要求 (連合裁定) ,第1段階「高等法院のフロンド」 Fronde parlementaireが開始された。8月 26~28日反政府派の指導者 P.ブルーセルの逮捕を機に,パリ民衆はバリケード事件を起し反乱に参加したが,49年3月高等法院は政府と妥協しリュエイユの講和を結んだ。中央政局の混乱は地方に波及し全国的規模の内戦に発展した。パリではコンデ (大コンデ) を中心とする反マザランの抗争が起り,反乱は「貴族のフロンド」 Fronde princièreの段階に入った。戦局はコンデの逮捕と釈放,マザランと摂政アンヌ・ドートリッシュの亡命,さらにコンデのパリ占領とめまぐるしく変転するが,結局マザランの勝利に終った。しかし,反乱の過程にはパリその他の民衆の参加が認められ,特にボルドーでは民衆組織「楡 (にれ) の木同盟」が一時市政を掌握し,53年8月まで中央政府抵抗を続けた。反乱鎮圧の結果,王権による集権的行政支配体制確立の道が開かれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フロンドの乱」の意味・わかりやすい解説

フロンドの乱
ふろんどのらん

フランスのルイ14世の幼少期における高等法院・貴族を中心とする反王権運動(1648~53)。フロンドfrondeとは、当時青少年に流行した石投げ器のことで、それをもじって名づけられたといわれる。運動の根底には、リシュリューの中央集権化政策路線を受け継ぐマザランに対する彼らの不満や、食糧・財政危機に対する民衆の不満があげられる。

 高等法院のフロンドFronde(1648~49)は、その第一段階であり、パリ高等法院、会計院、租税院、大評議会の法官たちは、1648年5月より一致してマザランによる既得権侵害に抗議し、国政改革案を示して王権に対抗した。これにはパリとその周辺地域の民衆も同調したが、翌年3月高等法院と王権の妥協が成立した。第二段階は、貴族のフロンド(1650~53)で、高等法院のフロンドの収拾に力のあったコンデ親王一族が、マザラン打倒を目ざし、旧貴族勢力の復権を図った。51年になると、パリ高等法院も貴族のフロンドに合流したので、パリは騒乱に巻き込まれた。成年に達したルイ14世は、コンデ一族との武力対決を続け、反国王派にいたチュレンヌを王党派に引き入れることに成功し、52年9月コンデはパリを離れて亡命した。

 フロンドの乱の背景には、局面に応じて民衆の蜂起(ほうき)がみられたが、それは高等法院や貴族のフロンド派によって反王権運動に利用されたにすぎなかった。ルイ14世は、幼少時に体験したフロンドの乱という苦い思い出を教訓として、親政開始後から、高等法院や旧貴族層の政治的特権を剥奪(はくだつ)し、国王絶対主義への道を切り開くことになった。

[志垣嘉夫]

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