朝日日本歴史人物事典 「勝賢」の解説
勝賢
生年:保延4(1138)
鎌倉前期の真言宗僧。藤原通憲(信西)の子。母は藤原兼永の娘で,後白河上皇の乳母の紀伊二位朝子とみられる。醍醐寺座主実運の弟子。保元の乱(1156)によって配流されるが,許されて永暦1(1160)年に21歳で醍醐寺座主に補任される。他の候補者を退けての強引な人事は,勝賢が後白河上皇の乳母子だったからであり,以後3度にわたって座主を勤めたが,いずれも上皇の意向によった。座主在任中には三宝院の文書を整理し,鎮守清滝宮を修造するなど寺内の整備に努め,桜会(清滝会)を興隆した。勝賢の下で桜会の童舞は最盛期を迎え,醍醐寺に華やかな芸能の時代を築いた。文治1(1185)年権僧正,同3年東寺長者,建久3(1192)年には東大寺別当となり,重源の東大寺再建を支えた。仁和寺の守覚法親王とも親しく,『雨言雑秘記』などの多くの著作が両者の法の交流を物語っている。<参考文献>土谷恵「中世醍醐寺の桜会」(佐藤道子編『中世の寺院と法会』)
(土谷恵)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報