目次 歴史 イエメン・アラブ共和国 自然,住民 政治 経済,産業 イエメン人民民主共和国 自然,住民 政治 経済,産業 イエメン共和国 基本情報 正式名称 =イエメン共和国Jumhūrīya al-Yamanīya,Republic of Yemen 面積 =52万7968km2 人口 (2010)=2315万人 首郡 =サヌアSan`ā'(日本との時差=-6時間) 主要言語 =アラビア語 通貨 =イエメン・リヤールYemen Riyāl
アラビア半島の南西端部に位置し,アラビア語ではヤマンal-Yamanという。イエメン・アラブ共和国(北イエメン)とイエメン人民民主共和国(南イエメン)に分かれていたが,1990年5月,南北統一がなり,イエメン共和国が誕生した。
歴史 イエメンとハドラマウト は南アラブの原住地で,彼らはここにサバ,ハドラマウト,カタバーン,マイーン,ヒムヤルなどの王国を建設した。これを総称して古代南アラビア王国というが,その絶対年代については定説がなく,最も古いサバ王国は,その王の名がアッシリア の碑文に現れる前8世紀末以前に建国されたとされるが異説もある。古代南アラビア王国は灌漑農業と,ハドラマウト特産の乳香のほか,インド,東南アジアからもたらされた香料を地中海世界に運ぶ遠隔地通商によって栄え,その豊かな香料のゆえに,古代ギリシア・ローマの著作家は南アラビアを〈幸福なアラビアArabia Felix〉と呼んだ。古代南アラビア王国は,神殿を主とする巨大建造物ならびにダムその他の灌漑施設の遺跡と,のちのアラビア文字と異なる文字で記した多数の碑文を残す。言語はセム系で,文字はフェニキア文字 から派生した。宗教は天体崇拝を主とした多神教で,神殿は広大な神殿領と多数の神殿奴隷を持っていた。ヒムヤル王国 は前2世紀末に興り,後4世紀にイエメン・ハドラマウトを統一した。ユダヤ教徒のイエメン定住はおそらく1世紀末ごろであろうが,4世紀にはキリスト教も伝えられ,多神教社会に亀裂が走った。同じ4世紀には,ササン朝,アクスム王国 による一時的なイエメン支配,ササン朝,ビザンティン帝国 によるペルシア湾 ・紅海経由のインド洋貿易の活発化などもあり,ヒムヤル王国の経済は衰退し,南アラブの一部は遊牧民となって北方へ移住した。コーラン34章16節に記された大洪水はマーリブのダムの決壊のことと解され,イエメンの灌漑農業の荒廃を象徴的に物語る。最後のヒムヤル王ズー・ヌワースDhū Nuwās(在位487-525)はユダヤ教に改宗し,ナジュラーン のキリスト教徒を虐殺した。ビザンティン皇帝 の要請を受けたアクスム王は,イエメンに出兵してズー・ヌワースを殺し,その後アビシニア (エチオピア )のイエメン支配が続いた。象の年(570)の数年後,ヒムヤル王家の王子サイフの指導するイエメン人の反乱がおこり,彼らはササン朝の軍事援助のもとにアビシニア人を追放したが,その結果イエメンはペルシア人総督の支配のもとに置かれ,5代目のとき631・632年にムハンマド のもとに下った。
イスラム時代になり,帝国の政治的中心がシリア,イラクに移るにつれ,イエメンは帝国の辺境と化し,同時にシーア派,ハワーリジュ派 の反政府運動の拠点となった。アッバース朝 のカリフ,マームーンの派遣した総督ムハンマドはイエメンの支配を回復したが,事実上の独立王朝ジヤードZiyād朝(820-1018)をザビードに開いた。9世紀の半ばごろ,ザイド派のイマームが北方のサーダに自立してラッシーRassī朝を開き,のちサヌアに移ったが,このザイド派政権は興亡と断続を繰り返しながら,1962年のクーデタまで続いた。9世紀の末からイスマーイール派 の活動が活発になったが,その主勢力は北アフリカに移ってファーティマ朝 を開いた。そのあとイエメンでは,イスマーイール派のスライフṢulayḥ朝(1047-1138)が勢力を強め,紅海沿岸のティハーマ のナジャーフNajāḥ朝(1021-1159)を破り,1063年にはラッシー朝をサーダに追ってサヌアに都し,一時はヒジャーズ をも侵略したが,最後はズー・ジブラに都を移し,同じイスマーイール派のズライーZuray`朝(1138-74)に支配権を奪われた。アイユーブ朝 を建設したサラーフ・アッディーン は,兄弟トゥーラーンシャーTūrānshāhにイエメン征服を命じ,タイズに都するアイユーブ朝(1174-1229)が成立した。しかしエジプト・シリアでマムルーク朝 がアイユーブ朝に代わったのと同じように,イエメンでもマムルーク がアイユーブ朝の支配権を奪い,ザビードに都してラスール朝 を開いた。南のアデンに興ったターヒルṬāhir朝(1446-1516)は,ラスール朝を滅ぼしてイエメンの大部分を支配したが,マムルーク朝のスルタン,カーンスーフQānsūḥの遠征によって滅び,メッカのシャリーフ(ハサン家の長)がイエメン総督に任命された。しかし翌1517年,マムルーク朝がオスマン帝国によって滅ぼされると,イエメン総督はオスマン帝国への臣従を誓った。オスマン帝国のイエメン支配はスレイマン1世のときに始まり,1635年までトルコ軍がイエメンに駐留した。その間,サヌアに拠ったラッシー朝はトルコ人支配に対する抵抗を続け,ザイド派イマームのムアイイド1世は1635年,トルコ軍を追放することに成功した。
16世紀の初めポルトガル人はインド洋に進出し,アルブケルケの艦隊はオマーンやホルムズを占領したが,イエメンの沿岸は難を免れた。スレイマン1世のイエメン支配は,ポルトガル艦隊の紅海への進入を防止するためであった。17世紀にはオランダとイギリスがインド洋の覇権を競い,イギリス東インド会社は1618年,モカに商館を設けた。ナポレオンのエジプト遠征後,インド洋航路の中継地としてのイエメンの重要さに注目したイギリスは,1799年にペリム島(のち撤退),1839年にアデンを占領,54年にクリア・ムリア島,57年にペリム島の割譲を受け,68年から88年にかけてアデンの後背地を買収し,以上を一括してアデン植民地(1937年に直轄植民地)にするとともに,その東方の群小首長国とソコトラ島とを保護領(アデン保護領)にした。
アラビア半島のナジュドに興ったワッハーブ王国は,1804年にヒジャーズを併せ,翌05年にティハーマに進出した。オスマン帝国スルタンの命を受けたエジプトのムハンマド・アリーはこれに介入し,第1次ワッハーブ王国は18年に滅んだ。やがてワッハーブ王国は再建され(1824),その子ファイサル1世はその支配をイエメン・ハドラマウトの境界にまで広げた。オスマン帝国はファイサル1世没後のサウード家の内紛に乗じて再び介入し,72年にトルコ軍がサヌアを占領して90年まで駐留した。ザイド派イマームはタイズに拠ってトルコ人支配への抵抗を続け,イエメンの事実上の独立を認めた1911年協定の素地がつくられた。 執筆者:嶋田 襄平
イエメン・アラブ共和国 アラビア半島の南西部,紅海に臨み,〈北イエメン〉とも呼ばれた。
国土は紅海に臨む狭いティハーマ平野,中央部の高原地帯,東部の砂漠地帯に大別される。ティハーマ平野は幅約50km,南北に延びる。高原地帯はサウジアラビアのアシール山地に続く高地で,標高1500~3000m,最高峰は3760mのハドゥール(ナビー・シュアイブNabī Shu`ayb)山。東部砂漠はルブー・アルハーリーに続く標高1000mのゆるやかな台地である。海岸地方は高温多湿であるが,高原地帯はアラビア半島の中で最も気候に恵まれ,南西季節風のもたらす雨(年雨量500~960mm)により農業が行われる。住民はヨクタン・セム族と呼ばれる純粋なアラブ人の子孫と言われるが,海岸地方や都市部では混血が強い。公用語はアラビア語,古代の言語が多く残存する。海岸地方ではイスラムのスンナ派,高原地帯ではシーア派の分派ザイド派 を信奉する。
1911年,当時高原地帯の支配権を掌握していたザイド派イマーム,ヤフヤー・ハミード・アッディーン はオスマン帝国の宗主権のもとに事実上の独立を得,これが北イエメンの基礎となった。34年イエメンに進撃していたサウジアラビア(イブン・サウード王)と和平協定を結び,北の国境線を決定し正式に独立王国となった。しかしヤフヤーは鎖国政策を取り,専制政治を行ったため民衆の不満が高まり,48年クーデタが起こり,ヤフヤーは殺される。その長子アフマドは王位を回復し,51年開国政策を打ち出し内閣制度も発足させたが,62年9月アフマドの死亡に伴いサラール大佐のクーデタが起こり,王政は廃止され共和政となった。共和政権はアラブ連合(エジプト)の支援を受けて,63年国連に加盟したが,アフマドの子バドルを擁する王政派はイギリスとサウジアラビアの支援で各地で大攻勢を展開し,69年までイエメンは内戦状態となった(イエメン戦争)。サラール大佐は大統領に就任し,64年4月新憲法を公布,アラブ連合と軍事協定を結んだが,67年6月の第3次中東戦争の敗北により,イエメン内紛解決のための調停工作が開始された。アラブ連合とサウジアラビアの和解に反対するサラール大統領は同年11月のクーデタで追放され,和平派内閣が成立,サウジアラビアも王政派への援助を停止したため,69年イエメン内戦は終息した。
70年恒久憲法が制定され,国会の設置も決まり,総選挙が実施された。しかし,選出された国会議員のほとんどが旧王政派に通じる保守的な部族長であり,北イエメンの政局はこれら保守勢力と共和派内部の主導権争いとで常に政情不安が続いた。南・北イエメン統一問題も協議され,これをめぐって保守勢力と共和派の対立が激化し,国境紛争も発生してきた。74年6月軍部の無血クーデタが起こり,ハムディ大佐を議長とする軍事評議会が発足した。ハムディ政権はサウジアラビアの支援を受け,国内の諸部族勢力の反発を抑えて西側寄りの外交政策を展開し,アメリカから積極的に武器を輸入するとともに,中国とも技術協力協定を締結した。南イエメンとも統一協議を進展させ,東西両陣営に対してバランス外交を展開したが,77年10月首都サヌアで暗殺された。ハムディの後を継いだガシュミ大統領も翌年6月南イエメンのルバイイ大統領の特使の書類かばんに仕掛けられた爆弾により死亡。北イエメンは南イエメンのルバイイ大統領を暗殺の首謀者として非難し,国交を断絶したが,相次ぐ暗殺の真相は諸説紛々として明らかでない。78年サーレハ政権が誕生,南・北イエメン国境地帯での紛争が拡大したが,79年アラブ諸国の仲介で休戦が成立,将来の南北統合の協議に合意した。サーレハ大統領も東西両陣営の双方から援助を受けるが,米ソどちらにもくみしないと言明,バランス外交を展開し,90年5月南北イエメンの統一を実現させた。
古来イエメンは〈幸福なアラビア〉と呼ばれるように,アラビア半島では最も自然条件に恵まれているが,イマーム体制下の鎖国政策による経済の衰退は今なお尾を引いている。しかし近隣アラブ産油国に働く出稼ぎ労働者(約120万人)からの本国送金が増大し,北イエメンに空前の建築ブーム,消費ブームを巻き起こした。さらに東西関係の接点としての戦略的重要性により,東西両陣営からの膨大な援助は同国の経済開発を活発化させた。しかし労働力の海外流出に伴う熟練労働力の不足は,国内産業に深刻な問題を投げかけている。特に農業は食糧自給を重要課題とする政府にとって大きな問題を含んでいる。主要作物はモロコシ,キビ,トウモロコシ,ムギ等の穀物類がほとんどである。モカ・コーヒーの名で愛されてきたイエメンのコーヒーは,現在では生産量が1万tを切っている。麻酔性のある茶樹カートが換金作物として急激な増産傾向にあり,問題となっている。おもな輸出品は綿花,菓子,ビスケット,生皮革,コーヒー。1982年12月サヌアから南へ90kmのダマールで大地震が起き,死者は3000人を超え,575年のマーリブ・ダムの決壊に次ぐ大惨事となった。
イエメン人民民主共和国 アラビア半島の南部,アラビア海,アデン湾に臨み,〈南イエメン〉とも呼ばれた。
自然,住民 アラビア半島南端の海岸沿いに横に細長く延び,西部山地,沿岸平野,北部砂漠(ハドラマウト),南部高原に大別される。西部山地はサウジアラビアのアシール山地の南端にあたり,2700mの高峰もある山岳地帯であり,南部高原へ延びる。北部砂漠はルブー・アルハーリー砂漠の延長で沿岸平野に向かってゆるやかに傾斜する。高原や山地を除いては高温多湿の気候である。雨は春と秋の集中降雨期のほかはほとんど降らない。平野部では平均年150mmにすぎない。夏には砂嵐が吹く。住民は90%がアラブ人であるが,アデンのような都市部には自由貿易港として栄えた時代の名ごりで,インド人,パキスタン人,ソマリア人等が少数だが定住している。宗教はイスラムのスンナ派が大多数を占めるが,戒律は厳しくない。イギリス統治時代に騒音防止の見地からコーランの呼声(アザーン)が禁止され,今でもほとんど行われない。飲酒も許されていて,一般に住民は純朴で,どろぼう等の犯罪はほとんど見られない。
政治 紅海とインド洋を結ぶ中継港としてのアデンの戦略的価値を重視したイギリスは,1839年アデンを占領,53年にはアデンは自由港となり,大いに栄えた。スエズ運河の開通とともにその価値は増大し,1937年イギリスの直轄植民地となった。当時アデンから東のアラビア半島南部には20を超える大小の首長国が存在していたが,1882年から1914年にかけてこれらの首長国はイギリスと保護条約を結び,アデン総督下に置かれ,いわゆるアデン保護領Aden Protectorateとなった。第2次世界大戦後は各地に起こった民族主義の嵐の中で,アデン保護領でも民族解放戦線(NLF)が中心となって対英武力闘争が続けられるようになった。59年6首長国が連合して〈南アラビア首長国連邦〉が誕生,62年東部の5首長国を加え〈南アラビア連邦〉とし,63年アデンもこれに加わり,南イエメンの基礎ができた。65年南アラビア連邦の即時独立を求める動きが急となり,テロ事件が続発したためイギリスはアデンについての憲法(法的資格)の停止,民族主義者の逮捕等の弾圧を行ったが,アデン問題に関する国連のイギリス非難決議が採択され,67年イギリスはスエズ以東から軍事撤退を開始した。同年11月南イエメン人民共和国の独立が宣言された。同年12月国連に加盟,アラブ連盟にも加わった。NLF書記長シャービーal-Sha`bīが初代大統領に就任し,68年ソ連と軍事技術援助協定を結んで社会主義路線を採った。
69年マルクス=レーニン主義を掲げる左派が台頭し,シャービーを更迭してルバイイ・アリーRubayyi `Alī(?-1978)が大統領になり,国有化政策を強硬に推進した。そのため西側諸国との関係が悪化し,同年10月にはアメリカ合衆国と断交した。70年新憲法を制定,国名を〈イエメン人民民主共和国〉と改めた。アラブ諸国で唯一のマルクス=レーニン主義を標榜する国となり,積極的に東寄りの外交を展開,ソ連,中国から大型の援助を取りつけた。北イエメンやオマーンとの国境紛争が散発するなかで,75年6月のスエズ運河再開を機に産油国接近を図り,76年3月サウジアラビアと外交関係を正常化するなど,アラブ諸国との関係改善に努め,ルバイイ大統領のソ連離れの傾向が見え始め,親ソ派のイスマーイール`Abd al-Fattāḥ Ismā`īl書記長との対立が生じた。78年6月24日北イエメンのガシュミ大統領がルバイイ大統領の特使の書類かばんに仕掛けられた爆弾で不慮の死を遂げる事件が起きると,その2日後にルバイイ大統領も失脚,軍事裁判にかけられ処刑された。同年7月1日ムハンマド`Alī Nāṣir Muḥammad首相,イスマーイール書記長による新体制が発足。筋金入りのマルクス主義者と言われるイスマーイール書記長は最高人民議会議長に就任し,79年ソ連と友好協力条約を締結した。しかし80年4月イスマーイール議長は失脚,ムハンマド首相が全権を掌握して,最高人民議会常任幹部会議長(大統領)になった。
86年1月,首都アデンでムハンマド大統領派とアンタル副大統領を中心とする反乱派との間で戦闘が勃発し,反乱派が勝利した。新大統領にはアッタースHaydar Abū Bakr al-`Aṭṭās(1939- )が就任,ソ連との協力関係強化に努めた。しかし,ソ連における政治改革の影響でソ連からの援助が激減したこともあって,89年には積極的に北イエメンとの統一交渉に取りくみ,90年5月の南北統一となった。
経済,産業 独立以後企業の70%余が国有化され,公共事業,石油事業,アデン港湾関係,食品加工に至るまで公営となったが,国家財政は慢性的な赤字が続き,後発発展途上国(LLDC),最貧国(MSAC)に指定された。人口の約90%が農業,漁業,遊牧に従事しており,輸出品は鮮魚,コーヒー,綿花,石油製品だが,大幅な入超となっている。南イエメン近海は水産資源の宝庫といわれ,日本からは日魯漁業が独立以前から操業しており,1980年から大洋漁業も加わった。 執筆者:塩尻 和子
イエメン共和国 1990年5月22日,南北イエメンが統一して成立した共和国。首都はサヌア。
新憲法にしたがって,一院制の国会が置かれ,完全統一までの移行期間(2年半)は大統領評議会が行政をつかさどり,大統領評議会メンバーの互選で大統領(元首)が選ばれた。初代大統領には旧北イエメン大統領のサーレハが就任した。また旧南イエメンのイエメン社会党書記長のビードが副議長(副大統領)に,旧南イエメン国民議会議長のアッタースが首相に,それぞれ選出された。統一後,複数政党制が導入され,40余の政党が誕生した。 執筆者:編集部