飛鳥寺(読み)アスカデラ

デジタル大辞泉 「飛鳥寺」の意味・読み・例文・類語

あすか‐でら【飛鳥寺】

明日香村にあり、元興寺・法興寺などと呼ばれた寺。推古天皇4年(596)蘇我馬子そがのうまこの建立と伝えられる。平城遷都に伴い平城京に元興寺建立後は本元興寺と呼ばれた。現在、安居院飛鳥大仏が残る。

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精選版 日本国語大辞典 「飛鳥寺」の意味・読み・例文・類語

あすか‐でら【飛鳥寺】

  1. 奈良県高市郡明日香村飛鳥にある真言宗豊山派の寺。推古天皇四年(五九六蘇我馬子が最初の本格的寺院として創建。法興寺、元興寺、本元興寺ともよばれた。現在は、僧坊安居院と鞍作止利作と推定される釈迦如来坐像(飛鳥大仏)が残る。

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日本歴史地名大系 「飛鳥寺」の解説

飛鳥寺
あすかでら

[現在地名]明日香村大字飛鳥

飛鳥集落の南にあり、飛鳥の神名備山である鳥形とりがた山の南西にあたる。現在、俗称飛鳥大仏として知られる安居あんご院という寺があり、かつての飛鳥寺の名残と伝える。安居院は山号鳥形山、真言宗豊山派に属する。本尊は飛鳥寺中金堂の本尊であった銅造釈迦如来坐像(国指定重要文化財)である。推古天皇一七年に鞍作止利が造った日本最古の丈六の仏像である。後世の補修が多いが、顔面や右手中央三指に当初のものを残し、法隆寺釈迦三尊に共通した止利式の仏像の特色をみせている。そのほか十二神将(平安時代)阿弥陀如来(鎌倉時代)・不動明王(室町時代)などがあり、本堂と庫裏との間に「飛鳥寺」の刻銘のある六角石灯籠(室町時代)がある。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔創建〕

飛鳥寺は法興ほうこう寺・大法興だいほうこう寺・元興がんごう寺とも号し、創建について「日本書紀」崇峻天皇元年是歳条に、百済から寺工・露盤博士・瓦博士などが渡来したことを記した後に、「飛鳥衣縫造が祖樹葉このはの家を壊ちて、始めて法興寺を作る。此の地を飛鳥の真神原と名く。亦は飛鳥の苫田とまたと名く」とある。これより造り始めて、同年一〇月条には「山に入りて寺の材を取る」、同五年一〇月条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起つ」とみえ、推古天皇元年正月条には「仏の舎利を以て、法興寺の刹の柱の礎の中に置く。丁巳に、刹の柱を建つ」とあり、同四年一一月条に「法興寺、造り竟りぬ。則ち大臣の男善徳臣を以て寺司に拝す。是の日に慧慈・慧聡、二の僧、始めて法興寺に住り」とあり、ここにいちおう完成したことが知られる。その後、同一四年四月条に「銅・繍の丈六の仏像、並に造りまつり竟りぬ。是の日に、丈六の銅の像を元興寺の金堂に坐せしむ。時に仏像、金堂の戸より高くして、堂に納れまつること得ず。是に、諸の工人等、議りて曰はく、「堂の戸を破ちて納れむ」といふ。然るに鞍作鳥の秀れたる工なること、戸を壊たずして堂に入るること得。即日に、設斎す。是に、会集へる人衆、勝げて数ふべからず」と記されている。その金銅丈六仏とは、いま安居院に残るものである。

〔古代〕

天武朝には官寺の列に入れられ、また当寺の西の槻の下では度々饗宴が張られている(日本書紀)。平城遷都とともに養老二年(七一八)九月二三日、新京に別院(元興寺)を建立(続日本紀)、旧都にあって本元興もとがんごう寺とよばれ、依然として栄えた。本元興寺は「延喜式」玄蕃寮にみえる十五大寺の一。

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改訂新版 世界大百科事典 「飛鳥寺」の意味・わかりやすい解説

飛鳥寺 (あすかでら)

奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派の寺。法興寺,本元興寺ともいう。蘇我馬子が創立した日本最初の本格的な寺院で,百済から招いた工人らが参画して,596年(推古4)ほぼ造営を終え,606年には仏師鞍作止利(くらつくりのとり)が作った本尊の丈六釈迦如来像が安置されている。古都飛鳥の地に〈大寺〉として偉容をほこり,寺の西の槻樹(つきのき)の下で供宴や蹴鞠(けまり)が行われた。644年(皇極3)中大兄皇子と中臣鎌足の出会いが有名である。また645年(大化1)の政変(乙巳(いつし)の変)で蘇我入鹿を殺害した中大兄皇子は当寺に立てこもり,672年(天武1)の壬申(じんしん)の乱でも近江朝廷軍が営所とするなど,7世紀の政治の舞台となった。662年(天智1)には唐より帰国した道昭が当寺の南東隅に禅院を建てて住んでいる。藤原京の時代は四大寺の一つに数えられているが,平城京遷都にともない,718年(養老2)金堂・塔など一部の建物を残して平城京へ移転した。この奈良の新寺を元興寺と称し,法興寺の由緒や資財はこの元興寺に継承されている。飛鳥にとどまった旧寺は一時衰えたが,9世紀初頭には再興され,837年(承和4)災異消除のために読経等の仏事を修せしめられた20ヵ寺の中に〈本元興寺〉の名が見え,これより元興寺と並称されるようになった。ところが1196年(建久7)雷火で焼失の後,急速に衰微し,現在では〈安居院〉と呼ぶ仮堂に本尊の〈飛鳥大仏〉を安置するのみである。
執筆者:

1956,57年の奈良国立文化財研究所発掘調査で,飛鳥大仏が旧中金堂の位置にあり,中金堂の南に塔,塔の東西に東西二つの金堂を配し,塔の南の中門から東西にのびる回廊が1塔3金堂の一郭をめぐり,回廊の北に講堂を配していることがわかった。中門の南に接した南門から寺域を画する築地塀が両側につらなり,西金堂の北西に西門,北辺中央に北門をもつ,南北300m×東西200mの寺地をもつ大伽藍であった。中金堂と塔の基壇は壇上積みであるが,東西金堂は下層にも礎石を配した重成基壇である。塔は1196年の罹災後再建されず,舎利などが掘り出されたが,一部は新しく作られた舎利容器に納めて塔の中心部の地下浅くに再納されていた。その下の心礎は現在の地表下3mにあり,中央に長方形舎利孔をもっている1辺2.4mの花コウ岩製で,方形の浅い柱座がある。心礎上面の周辺から鎌倉時代に掘り残した埋納品が発見された。挂甲(けいこう),馬鈴,金環,勾玉,管玉,ガラス玉などの埋納品は古墳出土品と同じで,593年の塔心柱を建てた時代をよくあらわした遺物である。多数出土した瓦は百済の扶余で発見されるものと似ており,百済の瓦工が指導したことがよくわかるが,その製作に陶作部(すえつくりべ)の工人が動員されるなど,仏教伝来時の造寺の様子がよくわかる。寺の西門の西側は古代史の重要な舞台となった槻樹の広場で,南門前と同じように石敷きの広場となっていた。
飛鳥美術
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「飛鳥寺」の意味・わかりやすい解説

飛鳥寺
あすかでら

奈良県明日香(あすか)村にある新義真言宗豊山(ぶざん)派の寺。本元興寺(もとがんごうじ)、安居院(あんごいん)ともいい、本尊の丈六釈迦如来坐像(じょうろくしゃかにょらいざぞう)(約2.75メートル)にちなんで飛鳥大仏ともいう。この寺は推古(すいこ)天皇が願主となり、聖徳太子が蘇我馬子(そがのうまこ)の協力を得て建立した寺であり、本尊は606年(推古天皇14)止利仏師(とりぶっし)作といわれる。『玉林抄』によると、四方の門には、東門に飛鳥寺、西門に法興寺、南門に元興寺、北門に法満寺と、それぞれ違った寺額がかけられていたと記されており、蘇我氏の氏寺であるとともに官寺でもあったことが知られる。創建時には隆盛を極めたが、都が飛鳥から平城(奈良)へ移るに際し、奈良には新元興寺が建立され、飛鳥寺は本元興寺とよばれ、衰微していった。さらに鎌倉時代の1196年(建久7)には寺に落雷があって伽藍(がらん)は焼亡し、現在、元興寺塔頭(たっちゅう)の安居院を残すのみとなっている。釈迦像も仏頭と右手指3本のみが往時の止利仏師作のものと伝える。

 なお、1956~1957年(昭和31~32)の奈良国立文化財研究所(現、奈良文化財研究所)による発掘調査の結果、塔を中心として、北、東、西の三方に金堂を配し、これらを回廊が囲む、いわゆる一塔三金堂の飛鳥寺式伽藍(がらん)配置であることが明らかにされた。

[里道徳雄]

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百科事典マイペディア 「飛鳥寺」の意味・わかりやすい解説

飛鳥寺【あすかでら】

奈良県高市郡明日香(あすか)村にある寺院。真言宗豊山派。法興(ほうこう)寺とも。蘇我馬子が自宅を寺院にしたもので,596年高麗僧恵慈(えじ)〔?-623〕を住まわせた。606年には日本最古の丈六金銅釈迦如来像(飛鳥大仏)を鋳造,安置した。平城京遷都以後,本元興(がんごう)寺と呼ばれた。その後荒廃,江戸時代に再建され,以後安居院と称される。1956年から1957年に発掘調査が行われた。→元興寺
→関連項目明日香[村]飛鳥時代飛鳥寺式伽藍配置氏寺寺院建築

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「飛鳥寺」の意味・わかりやすい解説

飛鳥寺
あすかでら

奈良県高市郡明日香村所在。真言宗豊山派に属する。安居院 (あんごいん) ,本元興寺 (もとがんごうじ) ともいう。もと法興寺,元興寺ともいわれ,平城京に移築後は本元興寺として残ったが,建久7 (1196) 年,塔の焼失後は急速に衰えた。現在は創建当初の釈迦像 (飛鳥大仏) を安置する安居院が存続する。飛鳥寺は蘇我馬子が崇峻1 (588) 年に発願して造営。推古1 (593) 年には塔に仏舎利が奉安され,同 14年に止利仏師 (→鞍作止利 ) 作といわれる丈六の釈迦如来像が安置された。近年,飛鳥寺跡の発掘調査の結果,南北中軸線上に南から南門,中門,塔,金堂,講堂が位置し,塔の東西にも金堂を配し,中門から回廊が延びて塔と3金堂を包んでいたことが明らかになった。このような配置を飛鳥寺式伽藍配置と呼んでいる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「飛鳥寺」の解説

飛鳥寺
あすかでら

(大)法興(ほうこう)寺・(本)元興(がんごう)寺とも。奈良県明日香村にある寺。現在は真言宗豊山派で安居院(あんごいん)と称する。崇峻元年,蘇我馬子(うまこ)の発願で創建。596年(推古4)に塔が完成し,606年には鞍作鳥(くらつくりのとり)作の丈六釈迦像を金堂に安置した。蘇我氏の氏寺として建立されたが,高句麗(こうくり)の慧慈(えじ),百済の慧聡(えそう)らの渡来僧が住し,飛鳥時代の仏教の拠点として繁栄。677年(天武6)当寺で一切経会(いっさいきょうえ)が修され,天皇が南門に出御した。680年にはとくに官治の例にいれられた。大官大寺・川原寺・薬師寺とともに飛鳥の四大寺と称され,唐から帰朝した道昭も当寺の東南に禅院をたてて住し,法相の教えを広めた。平城遷都にともない,718年(養老2)平城京に移され,旧地の寺は平城京の元興寺に対して本元興寺とよばれた。東・西・北の金堂が塔をとり囲む飛鳥寺式伽藍配置は,朝鮮半島の様式をうけついだとされる。飛鳥寺跡は国史跡。

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防府市歴史用語集 「飛鳥寺」の解説

飛鳥寺

 奈良県明日香村にあるお寺です。蘇我馬子[そがのうまこ]がつくらせました。大官大寺[だいかんだいじ]・薬師寺[やくしじ]・川原寺[かわらでら]とならんで、飛鳥の四大寺と言われていました。平城京[へいじょうきょう]に都がうつったとき、飛鳥寺もうつされました。 この寺の中央の柱を支える礎石[そせき]の下から蛇行状鉄器[だこうじょうてっき]が見つかっています。

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旺文社日本史事典 三訂版 「飛鳥寺」の解説

飛鳥寺
あすかでら

蘇我馬子が建立させたというわが国最古の寺院
法興寺とも呼ばれた。588年から609年にかけて百済工人の指導を得て造ったという。718年平城京に移建され元興寺となった。飛鳥の旧地に安居 (あんご) 院がある。塔を中心にして東・西・北の三方に金堂がある高句麗清岩里廃寺と同様の伽藍 (がらん) 配置をもつ。

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デジタル大辞泉プラス 「飛鳥寺」の解説

飛鳥寺

奈良県高市郡明日香村にある寺院。真言宗豊山派。596年、蘇我馬子の創建と伝わる日本最古の本格的寺院。本元興寺、法興寺、安居院(あんごいん)とも呼ばれる。本尊は俗に「飛鳥大仏」と呼ばれる釈迦如来像。

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世界大百科事典(旧版)内の飛鳥寺の言及

【飛鳥美術】より

…587年蘇我馬子はついに物部守屋を滅ぼし,ここに崇仏の基盤が確立した。
[法興寺の創建]
 翌588年百済は仏舎利,僧,寺工,瓦博士,画工(白加)を献じ,馬子は法興寺(飛鳥寺)建立を発願した。法興寺の造営は596年竣工まで9ヵ年を要している(紀)。…

【寺院建築】より

…伽藍配置は中央に平面八角形の塔を据え,三金堂を東西北面に配置する。この形式は漢代の天文占星思想に由来するものとして,初めは宮殿址と考えられたが,日本の飛鳥寺の伽藍配置と同形式であることが明らかになって寺院址とされた。百済では公州と扶余に寺院址を残し,遺構には扶余定林寺址五重石塔,益山弥勒寺址多層石塔がある。…

【心礎】より

…心礎は他の礎石に比して著しく大きく,特別な設備をもっている。奈良県飛鳥寺,川原寺など飛鳥時代から白鳳時代の古い段階では,中心柱は掘立柱形式で,心礎は地中深く埋められている。7世紀後半の本薬師寺の心礎は,東西両塔とも地上に露出しており,この頃から以降は,地上の心礎が一般的となっていったようである。…

【仏教】より

…この時期の仏教の中心は飛鳥と斑鳩(いかるが)だった。飛鳥では6世紀末,蘇我馬子が百済系の技術を取り入れて日本最古の伽藍とされる法興寺(飛鳥寺)を建立し,そののち当寺はこの地域の仏教の中心として栄えた。蘇我氏とともに仏教興隆に尽くした聖徳太子の事績も大きい。…

【仏教美術】より

…日本における飛鳥時代の寺院は,塔を中心に中門,金堂,講堂が一直線につらなり,これを回廊が囲む伽藍配置(四天王寺式)であり,これは高句麗,百済,新羅の寺院址に類例がある。一方,日本最古の飛鳥寺は,塔の周囲に三面金堂をめぐらす特殊なものであるが,これも高句麗の清岩里廃寺に遺例があり,朝鮮との緊密な関係がうかがわれる。この伽藍配置で注目されることは,回廊で囲まれた中門,塔,金堂の一画とその後方の講堂とが分離していることで,インド以来の仏塔と僧院との厳然たる区分が,そのまま飛鳥寺の伽藍配置に継承されている点である。…

【真神原】より

…《日本書紀》雄略7年条には,新漢陶部(いまきのあやのすえつくりべ),鞍部,画部,錦部を,桃原と真神原に住まわせたとみえる。真神原とは,飛鳥寺周辺の低湿地をさし,この地に,崇峻1年,飛鳥衣縫造の祖,樹葉(このは)の家を壊して,飛鳥寺の造営が始められた。飛鳥【和田 萃】。…

※「飛鳥寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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