鎌倉前期の政治家。月輪関白(つきのわかんぱく)、後法性寺入道(ごほうしょうじにゅうどう)関白などの称がある。関白藤原忠通(ただみち)の三男。母は藤原仲光(なかみつ)の女(むすめ)加賀局(かがのつぼね)。1166年(仁安1)より右大臣。1186年(文治2)摂政(せっしょう)となり、1191年(建久2)から1196年まで関白。
兼実の政治的生涯は3期に分かつことができる。第1期は16歳から34歳まで、平氏政権下にあったときである。初め公家(くげ)政権との協調に努めた平氏は、摂政の近衛基実(このえもとざね)と血縁を結び、同じ触手を弟松殿基房(まつどのもとふさ)、兼実にも及ぼそうとした。しかし公武対立の激化に伴い独裁化してゆく平氏権力は摂政基房を追放して未曽有(みぞう)の屈辱を与えた。摂関家の誇りに生きた兼実は極力平氏との接触を警戒した。その結果、兼実は終始右大臣にとどまることとなり、摂関就任の念願は阻まれた。しかし、この雌伏の間に彼が得た政治の体験は将来の飛躍の原動力となった。平氏政権は清盛(きよもり)の死に衰兆を示し、源義仲(よしなか)の進攻に崩壊し、頼朝(よりとも)の新政権にとどめを刺された。この都の破局の収拾と公家政治の再建の仕事は、衆目のみるところ、いまや摂関家中、見識、実力、年齢において最長老であった兼実にもっぱら期待された。清盛、義仲において武家を危ぶんだ兼実は、かくして頼朝に賭(か)けるほかない立場に置かれたが、それがたまたま兼実を政権の座につける結果をもたらした。平家滅亡後、頼朝の弟義経(よしつね)追及に対する兼実の全面協力が2人を確実に結び付けたのである。兼実はここに頼朝の支持によって摂政となった。かくて年来の宿望を達成して彼の政治の第2期が開ける。それは平和回復の時代の到来であった。この情勢を象徴する歴史的事業として朝廷は東大寺復興に全力をあげた。その完成に際して頼朝も上洛(じょうらく)して敬意を表したが、その機会に頼朝と兼実とは相語って盟約を固めている。しかし一方、兼実のこの立場は疑惑の的となり、朝廷への反逆者をもって目せられることは兼実をもっとも苦しめた。またその女子を後鳥羽中宮(ごとばちゅうぐう)とすることができたが、ついに皇子の誕生なく外戚(がいせき)政治の望みも断たれた。一方、朝廷内部の反武家勢力を代表する源通親(みちちか)は九条家の競争者近衛家を擁して、1196年兼実打倒の政変に成功。兼実はかくて48歳で政界を去り、第3期すなわち隠棲(いんせい)期に入る。兼実は早く長男良通(よしみち)を失い、のちには次男良経(よしつね)に先だたれ、晩年は良経の子道家(みちいえ)の成長を楽しみつつ子孫と没後のみに心を砕く身となった。一方つとに親しんできた仏教の信仰は年とともに深く、当時専修(せんじゅ)念仏の教えを開いた法然房源空(ほうねんぼうげんくう)を邸に請(しょう)じて法を聞き、源空の主著『選択(せんちゃく)本願念仏集』成立も兼実の請が機縁となったという。『法然上人(しょうにん)行状絵図』はこれらの経緯を伝えている。晩年、法性寺の傍らに月輪殿を営んで住んだ。建永(けんえい)2年4月5日没。兼実の日記は『玉葉(ぎょくよう)』といい66巻、ほかに柳原本1巻が現存している。記事は40年にわたり、彼の生きた変革期を活写して、数多い公家日記中で高く評価されるものの一つである。
[多賀宗隼]
『龍粛著『鎌倉時代 下』(1957・春秋社)』▽『日高重孝著・刊『月輪関白 九条兼実』(1965)』▽『杉山信三著『藤原氏の氏寺とその院家』(1968・吉川弘文館)』▽『多賀宗隼著『玉葉索引――藤原兼実の研究』(1974・吉川弘文館)』
平安末~鎌倉初期の公卿。藤原忠通の三男。母は家女房藤原仲光女。同母弟に慈円らがおり,異母兄弟姉妹に藤原基実(近衛),同基房(松殿),聖子(皇嘉門院),呈子(九条院)らがいる。兼実は父忠通から九条の地を譲られ,ここに邸を構えて九条を家名とした。1160年(永暦1)従三位・非参議となってから,同年権中納言,翌年(応保1)権大納言,64年(長寛2)内大臣,66年(仁安1)右大臣と累進した。しかし後白河院と平氏との権力争いの中で,巧みにこれらと結んだ松殿基房,近衛基通(基実の子)に対し,兼実はそのどちらとも結ばず,また平氏に代わって源義仲が入京してからも,その短命を見通して兼実は終始静観しつづけた。そのような兼実に対し,鎌倉幕府を開いた源頼朝がしだいに接近をはかり,やがて兼実自身もこれと提携するに至った。頼朝に支持された兼実は,1185年(文治1)議奏公卿に補せられ,かつ内覧宣旨をうけ,翌年には兄基実の子基通に代わって摂政,氏長者,さらに91年(建久2)には関白となった。そして翌年後白河法皇が死去するに至り,関白としての兼実の実権が確立して,その全盛期を迎えた。しかし源通親が外戚の地位を利して政権をにぎるに及んで96年(建久7)廟堂を追われ,以後は隠棲生活を送った。1202年(建仁2)出家して円証と称し,九条の地に月輪殿を営んで月輪関白と呼ばれた。07年(承元1)没して父と同じく九条の地の法性寺(ほつしようじ)に葬られて後法性寺関白と呼ばれた。室は藤原季行女(良通・良経の母),その他藤原頼輔女,高階盛章女らが女房として知られている。兼実は教養・趣味の広い人であり,またその念仏信仰も有名で,法然上人源空の《選択(せんちやく)集》は兼実の求めによってあらわされたという伝えがある。兼実の日記は《玉葉》と呼ばれている。
執筆者:新田 英治
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(五味文彦)
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1149~1207.4.5
平安末~鎌倉初期の公卿。藤原忠通の三男で,九条家の祖。順調に昇進し,18歳で右大臣,その後従一位。摂関就任を望むが源平内乱期にはその機会に恵まれず,1185年(文治元)源頼朝の後援により内覧宣下,翌年摂政・氏長者となる。91年(建久2)関白。執政期には後白河院政を牽制し,内乱後の公家政界の復興に努めた。また女任子を後鳥羽天皇に入内させて外戚の地位を狙うが,頼朝との関係悪化や源通親・藤原範季らとの対立により,96年関白を罷免され政界を追われた。1202年(建仁2)出家,円証と称す。月輪(つきのわ)殿・後法性寺(ごほっしょうじ)殿ともよばれる。日記「玉葉(ぎょくよう)」は前後約40年間にわたり,当時を知る貴重な史料。
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…2歳で母を,10歳で父を失った慈円は,65年(永万1)に鳥羽天皇の皇子覚快法親王に従って道快と名のり,67年(仁安2)天台座主明雲を戒師として受戒得度した。摂関家の出身である慈円の地位は順調に上昇したが,80年(治承4)天台僧としての修行にひとくぎりをつけた慈円は,世俗化した延暦寺にあきたらず,隠遁したいと考えたが,保護者であった同母兄の兼実(九条兼実)に説得されて思いとどまった。そのころ慈円と名を改めたものと思われる。…
※「九条兼実」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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