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九条兼実 くじょう かねざね

美術人名辞典の解説

九条兼実

鎌倉前期の公卿摂政関白。従一位。藤原忠通の三男。京都九条殿に住み、九条家を創設。月輪殿・法性寺殿と言われる。源頼朝信任を得て摂政・関白となり、後白河法皇歿後の朝勢を掌握、頼朝の征夷大将軍宣下を実現させた。のち関白を退き出家法名を円証という。承元元年(1207)歿、59才。

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デジタル大辞泉の解説

くじょう‐かねざね〔クデウ‐〕【九条兼実】

[1149~1207]鎌倉初期の公卿。藤原忠通の子。九条家の祖。法名は円証。源平争乱期に複雑な政治生活を送るが、源頼朝と結び、摂政・関白となった。博学をもって知られ、典礼和歌・音楽・書に秀でた。日記「玉葉」がある。月輪(つきのわ)関白。法性寺殿。

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百科事典マイペディアの解説

九条兼実【くじょうかねざね】

平安末から鎌倉初期の公卿(くぎょう)。藤原忠通の三男。九条家の始祖。月輪(つきのわ)殿,法性寺(ほっしょうじ)殿とも。1185年源頼朝の推挙で議奏(ぎそう)公卿,翌年摂政となり,1191年関白。
→関連項目九条道家近衛基通慈円宣陽門院高階栄子春木荘藤原良経源通親輪田荘

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

九条兼実 くじょう-かねざね

1149-1207 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
久安5年生まれ。藤原忠通(ただみち)の子。九条家の祖。仁安(にんあん)元年右大臣,承安(じょうあん)4年従一位。平氏滅亡後源頼朝に支持されて摂政,氏長者,太政大臣,関白となり,頼朝の征夷大将軍宣下(せんげ)をとりはからう。建久7年政敵の源通親(みちちか)に追われて失脚,法然に帰依(きえ)して出家した。建永2年4月5日死去。59歳。通称は月輪殿,後法性寺殿。法名は円証。日記に「玉葉」。
【格言など】霞しく春の潮路を見わたせば緑を分くる沖つ白波(「千載和歌集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

九条兼実

没年:承元1.4.5(1207.5.3)
生年:久安5(1149)
鎌倉初期の政治家。九条家を興し朝廷政治を再建する。摂関家の藤原忠通と家の女房加賀(藤原仲光の娘)の間に生まれ,邸宅法性寺殿を譲られて後法性寺殿,月輪殿と称された。父の後継者の意識が強く,広く学問を学ぶなか,姉の皇嘉門院の庇護を得て摂関を志し仁安1(1166)年には右大臣となる。治承3(1179)年の平清盛のクーデタで後白河法皇が幽閉され,関白藤原基房が流されたことから摂関への期待を抱くが,甥の基通が清盛の後押しで関白となった。しかし次の摂関は自分であると確信し,八条院に接近して情勢を窺い,内乱と飢饉の状況での政治の施策を後白河法皇から問われると,徳政の実施を常に訴えていたが,平氏の滅亡とともに源頼朝の援助を得て念願を達成する。後白河法皇が源義経に頼朝の追討を命じたことから,頼朝が強く反発して文治1(1185)年12月に朝廷政治の改革を求め兼実を内覧に推薦してきたのである。翌年2月に摂政となると,頼朝と提携して意欲的に政治改革を進め,記録所を置いて裁判,訴訟の振興に努め,識者から意見を募って政治のあるべき姿を提示し,朝廷政治の復興を図った。さらに娘任子の入内実現に向けて力を注ぎ摂関政治の再来を構想した。 建久1(1190)年に頼朝が上洛したときの会談で頼朝の後援の約束をとりつけると,3年の後白河法皇の死後,「殿下,鎌倉の将軍仰せ合つつ,世の御政はありけり」という政治が実現した。頼朝を征夷大将軍に任じ,弟慈円を天台座主や天皇の護持僧となし,東寺,興福寺,東大寺の修造,造営を果たし,朝廷の公事,行事を再興して以後の朝廷の体制を整えた。しかしその得意の絶頂も長くは続かず,頼朝が後継者問題で後白河法皇晩年の寵妃丹後局や政敵源通親と結んだことから孤立し,建久7年の政変によって失脚。娘任子は内裏を出た。ただ子の良経は健在で兼実もやがて復活するが,妻の死により法然を戒師として出家。朝廷政治の基礎を築いて世を去った。<参考文献>多賀宗隼『玉葉人名索引』

(五味文彦)

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世界大百科事典 第2版の解説

くじょうかねざね【九条兼実】

1149‐1207(久安5‐承元1)
平安末~鎌倉初期の公卿。藤原忠通の三男。母は家女房藤原仲光女。同母弟に慈円らがおり,異母兄弟姉妹に藤原基実(近衛),同基房(松殿),聖子(皇嘉門院),呈子(九条院)らがいる。兼実は父忠通から九条の地を譲られ,ここに邸を構えて九条を家名とした。1160年(永暦1)従三位・非参議となってから,同年権中納言,翌年(応保1)権大納言,64年(長寛2)内大臣,66年(仁安1)右大臣と累進した。しかし後白河院と平氏との権力争いの中で,巧みにこれらと結んだ松殿基房,近衛基通(基実の子)に対し,兼実はそのどちらとも結ばず,また平氏に代わって源義仲が入京してからも,その短命を見通して兼実は終始静観しつづけた。

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大辞林 第三版の解説

くじょうかねざね【九条兼実】

1149~1207) 鎌倉初期の公家。九条家の祖。藤原忠通の三男。慈円の兄。源頼朝の奏薦により議奏公卿の上首となり、ついで摂政・関白を歴任。のち土御門通親と対立して失脚、出家して法然に帰依。博学多識で和歌に優れた。月輪つきのわ関白・後法性寺関白とも。日記「玉葉」がある。藤原兼実。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

九条兼実
くじょうかねざね

[生]久安5(1149)
[没]承元1(1207).4.5. 京都
平安時代末期,鎌倉時代初期の公卿。九条家の始祖。藤原忠通の子。母は藤原仲光の娘加賀局。保元3 (1158) 年,元服して正五位下となり,永暦1 (60) 年正三位,権中納言,翌年従二位,権大納言,右大将,長寛2 (64) 年内大臣に進み,仁安1 (66) 年右大臣となる。文治2 (86) 年には兼実は摂政氏長者 (うじのちょうじゃ) となり,朝廷に重きをなした。建久1 (90) 年娘の任子を入内させ,後鳥羽天皇の中宮とした。同年上洛した源頼朝と会してともに朝政の振興をはかり,同2年関白となった。同3年,後白河法皇が没すると,頼朝の征夷大将軍宣下に尽力し,勢力の伸長をはかったが,土御門通親 (→源通親 ) の策謀によって,同7年兼実は関白を罷免され,中宮任子は宮中を退き,兼実の弟慈円は天台座主の地位を追われ,九条一門の多くは失脚していった。建仁2 (1202) 年,出家して法性寺に住し,法然の浄土宗に帰依した。法名を円証という。博学で故実に通じ,和歌に長じた。『千載集』『新古今集』など勅撰和歌集に五十余首が収められている。彼の日記『玉葉』 (『玉海』) は史料価値が高い。月輪殿,のち法性寺殿と呼ばれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

九条兼実
くじょうかねざね
(1149―1207)

鎌倉前期の政治家。月輪関白(つきのわかんぱく)、後法性寺入道(ごほうしょうじにゅうどう)関白などの称がある。関白藤原忠通(ただみち)の三男。母は藤原仲光(なかみつ)の女(むすめ)加賀局(かがのつぼね)。1166年(仁安1)より右大臣。86年(文治2)摂政(せっしょう)となり、91年(建久2)から96年まで関白。
 兼実の政治的生涯は3期に分かつことができる。第1期は16歳から34歳まで、平氏政権下にあったときである。初め公家(くげ)政権との協調に努めた平氏は、摂政の近衛基実(このえもとざね)と血縁を結び、同じ触手を弟松殿基房(まつどのもとふさ)、兼実にも及ぼそうとした。しかし公武対立の激化に伴い独裁化してゆく平氏権力は摂政基房を追放して未曽有(みぞう)の屈辱を与えた。摂関家の誇りに生きた兼実は極力平氏との接触を警戒した。その結果、兼実は終始右大臣にとどまることとなり、摂関就任の念願は阻まれた。しかし、この雌伏の間に彼が得た政治の体験は将来の飛躍の原動力となった。平氏政権は清盛(きよもり)の死に衰兆を示し、源義仲(よしなか)の進攻に崩壊し、頼朝(よりとも)の新政権にとどめを刺された。この都の破局の収拾と公家政治の再建の仕事は、衆目のみるところ、いまや摂関家中、見識、実力、年齢において最長老であった兼実にもっぱら期待された。清盛、義仲において武家を危ぶんだ兼実は、かくして頼朝に賭(か)けるほかない立場に置かれたが、それがたまたま兼実を政権の座につける結果をもたらした。平家滅亡後、頼朝の弟義経(よしつね)追及に対する兼実の全面協力が2人を確実に結び付けたのである。兼実はここに頼朝の支持によって摂政となった。かくて年来の宿望を達成して彼の政治の第2期が開ける。それは平和回復の時代の到来であった。この情勢を象徴する歴史的事業として朝廷は東大寺復興に全力をあげた。その完成に際して頼朝も上洛(じょうらく)して敬意を表したが、その機会に頼朝と兼実とは相語って盟約を固めている。しかし一方、兼実のこの立場は疑惑の的となり、朝廷への反逆者をもって目せられることは兼実をもっとも苦しめた。またその女子を後鳥羽中宮(ごとばちゅうぐう)とすることができたが、ついに皇子の誕生なく外戚(がいせき)政治の望みも断たれた。一方、朝廷内部の反武家勢力を代表する源通親(みちちか)は九条家の競争者近衛家を擁して、1196年兼実打倒の政変に成功。兼実はかくて48歳で政界を去り、第3期すなわち隠棲(いんせい)期に入る。兼実は早く長男良通(よしみち)を失い、のちには次男良経(よしつね)に先だたれ、晩年は良経の子道家(みちいえ)の成長を楽しみつつ子孫と没後のみに心を砕く身となった。一方つとに親しんできた仏教の信仰は年とともに深く、当時専修(せんじゅ)念仏の教えを開いた法然房源空(ほうねんぼうげんくう)を邸に請(しょう)じて法を聞き、源空の主著『選択(せんちゃく)本願念仏集』成立も兼実の請が機縁となったという。『法然上人(しょうにん)行状絵図』はこれらの経緯を伝えている。晩年、法性寺の傍らに月輪殿を営んで住んだ。建永(けんえい)2年4月5日没。兼実の日記は『玉葉(ぎょくよう)』といい66巻、ほかに柳原本1巻が現存している。記事は40年にわたり、彼の生きた変革期を活写して、数多い公家日記中で高く評価されるものの一つである。[多賀宗隼]
『龍粛著『鎌倉時代 下』(1957・春秋社) ▽日高重孝著・刊『月輪関白 九条兼実』(1965) ▽杉山信三著『藤原氏の氏寺とその院家』(1968・吉川弘文館) ▽多賀宗隼著『玉葉索引――藤原兼実の研究』(1974・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の九条兼実の言及

【玉葉】より

九条兼実の日記。原本は伝わらないが,1164年(長寛2)から1203年(建仁3)までの部分が写本によって伝えられている。…

【慈円】より

…2歳で母を,10歳で父を失った慈円は,65年(永万1)に鳥羽天皇の皇子覚快法親王に従って道快と名のり,67年(仁安2)天台座主明雲を戒師として受戒得度した。摂関家の出身である慈円の地位は順調に上昇したが,80年(治承4)天台僧としての修行にひとくぎりをつけた慈円は,世俗化した延暦寺にあきたらず,隠遁したいと考えたが,保護者であった同母兄の兼実(九条兼実)に説得されて思いとどまった。そのころ慈円と名を改めたものと思われる。…

※「九条兼実」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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