コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

勧修寺晴豊 かじゅうじ はれとよ

2件 の用語解説(勧修寺晴豊の意味・用語解説を検索)

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

勧修寺晴豊 かじゅうじ-はれとよ

1544-1603* 織豊時代の公卿(くぎょう)。
天文(てんぶん)13年2月24日生まれ。勧修寺晴右(はれすけ)の長男。元亀(げんき)3年参議となり,権(ごんの)中納言,権大納言をへて慶長6年(1601)従一位,准大臣にすすむ。慶長7年12月8日死去。59歳。19年内大臣を追贈された。日記に「晴豊公記」。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

勧修寺晴豊

没年:慶長7.12.8(1603.1.19)
生年:天文13.2.24(1544.3.17)
戦国時代の公卿。父は贈内大臣晴右,母は武田氏家臣栗屋元隆の娘という。天文22(1553)年従五位上に叙せられ,のち蔵人,参議,権中納言などを歴任し,天正10(1582)年権大納言,慶長6(1601)年に従一位准大臣となる。没後12年の慶長19(1614)年には内大臣を贈られた。なお八条宮智仁親王の生母晴子(新上東門院)は晴豊の同母妹に当たる。この間,父晴右の職を継いだ天正4年から慶長4年までのおよそ24年間にわたり,武家伝奏(武家からの願い出を朝廷に伝える役)として公武の橋渡しの役割を担った。このため,晴豊の遺した日記『晴豊公記』には,戦国期の室町幕府戦国大名との交渉などを知る上で貴重な記述を見出すことができる。晴豊は,しばしば勅使として織田信長,豊臣秀吉などとの交渉を行っており,天正8年織田信長と石山本願寺との間の和平交渉にも当たっていることなどが知られ,また千利休とのつきあいもあり当該期の政治史研究に欠かすことができない。天正4年6月には将軍足利義昭の勘気にふれ,父と共に蟄居したが間もなく許されている。なお,晴豊の自筆の日記は,京都大学文学部に所蔵されている。<参考文献>『続史料大成』9巻

(小森正明)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

勧修寺晴豊の関連キーワード今出川公興久我豊通二条尚基二条吉忠花山院政長勧修寺晴右久我通言西園寺実宣徳大寺公胤源具実

今日のキーワード

トランスアジア航空

台湾・台北市に本拠を置く航空会社。中国語名は復興航空。1951年、台湾初の民間航空会社として設立。83年に台湾の国産実業グループに経営移管され、組織改編を実施した。92年に国際チャーター便の運航を始め...

続きを読む

コトバンク for iPhone