寺院の法会のあとに余興として演ぜられた芸能の総称。延年とは文字通り,〈齢を延ぶる〉ということで,もとは芸能を意味する言葉ではなかったが,〈詩歌管絃者遐齢(かれい)延年也〉(《庭訓往来》),あるいは〈抑,芸能とは諸人の心をやはらげて上下の感をなさん事,寿福増長のもとひ,遐齢延年の法なるべし〉(《風姿花伝》)とあるように,芸能には古来延年除禍の効験が認められており,そのために延年と言えば芸能を意味するようになったものである。延年という言葉が〈芸能〉の意味で使用された最も早い例は1018年(寛仁2),藤原道長の息女威子が後一条帝の中宮になったおりに〈御延年〉があったとする《左経記》の記事である。これは宮廷におけるものだが,以後の延年資料は圧倒的に寺院におけるものが多い。平安末期から鎌倉,室町にかけて延年が催された寺院は,畿内では興福寺,東大寺,法隆寺,薬師寺,多武峰(とうのみね)(古くは〈たんのみね〉),比叡山,園城寺,醍醐寺などであり,地方では日光輪王寺,平泉の中尊寺,毛越(もうつ)寺などであるが,とりわけ南都の延年が歴史も古く,かつ盛大であった。たとえば,興福寺の延年は維摩会(ゆいまえ)に付属する催しであったが,白河院の時代にはすでに行われていたものと思われる。鎌倉時代初頭には,〈延年頭〉なる所役がみえ(《三会定一記》1338),このころには維摩会の延年が相当に整備されていたことがうかがえる。また室町将軍家が南都に下向して維摩会延年を見物している事実も,南都における延年の隆盛をよく示すものであろう。室町期の南都の延年については《室町殿御翫延年等日記》《管絃講幷延年日記》等の資料が伝存しており,当時の延年のさまを詳細に知ることができる。
一口に延年といっても,そこで演ぜられた芸能は単一ではなく,またおのずから変遷もあった。すなわち,鎌倉初期における延年芸としては児(ちご)の舞と大衆(だいしゆ)の猿楽とがあった。児はもっぱら白拍子などを舞ったもので,《法然上人絵伝》にみえる児舞(ちごまい)は鎌倉初期ごろの延年の児舞を伝える貴重な絵画資料である。一方,猿楽の内容はあまり明確ではないが,開口(かいこう),秀口(しゆうく),答弁(とうべん)といった言葉を主体とする芸,さらには乱舞(らつぷ)/(らんぶ)と汎称される多様な舞などがその中身であったらしい。猿楽という呼称からもうかがえるように,これらは多分に滑稽な要素を含むものであったが,これら延年で演ぜられた猿楽は,いまだその実態が分明ではない平安・鎌倉期の猿楽の芸態を伝えるものとして貴重な研究材料を提供してもいる。そして,時の経過とともに延年芸にはさまざまの意匠がこらされ,演ぜられる芸能の種類もしだいに増加していった。たとえば多武峰では6月の蓮華会の延年が盛大であったが,その蓮華会延年の室町後期における演目をみると,頌物,俱舎舞(くしやまい),切拍子,乱拍子,音取(ねとり),楽,朗詠,白拍子,開口,連事(れんじ),狂物,伽陀,小風流,大風流,鉾振(ほこふり)などがあり(1515年(永正12)の《蓮華会延年式目》),演目の増加と次第の整備がいっそう進んでいることがわかる。これを興福寺など他の寺院の室町期の演目に比較してみると,多少の出入りはあるが,大略は上記の多武峰蓮華会の延年式目に一致する。そして,鎌倉初期の演目になく,新たに加わったものの中で,とりわけ注目すべきものが風流(ふりゆう)と連事である。
風流とは元来,綺羅をつくした意匠といった意味で,平安時代には室内の装飾や牛車の装飾などにこらされた華美な意匠を風流と呼んでいたが,やがて主として祭礼の練物(ねりもの)の歌舞(囃し物)や,同じく祭礼の際の作り物や仮装などの呼称となるにいたる。その風流がさまざまの芸能をとりこみつつあった延年芸として吸収されたわけであるが,その風流が延年という場において鎌倉中期ごろから一定の筋書を備えた劇形態の芸能として発展したのが延年の風流なのである。この延年の風流には大風流と小風流があり,せりふによって筋書が進行する点において共通するが,大風流は大がかりな作り物が出て,舞楽で終わり,小風流はさしたる作り物も出ず,最後も単なる舞で終わる。作り物や舞楽の有無に象徴されるように,大風流と小風流の区別はその規模の大小によるとみてよいが,それらがどのような内容と結構をもっていたかをよく示すのが多武峰念誦窟の僧実禅が1544年(天文13)に書写した《多武峰延年詞章》で,それには大風流24曲,小風流15曲が収載されている。その曲名を二,三掲げると,《西王母事》《周武王船入白魚事》《廉承武琵琶曲事》《玄宗皇帝幸月宮事》(以上大風流),《天台山之事》《荘子事》《声明師詣清涼山事》(以上小風流)などがあり,多くが中国の故事に取材しているのは,やはり寺院芸能という特殊性のゆえであろう。連事も風流と同じく1544年の書写のものが多武峰に残されている。やはり劇形態をもつ延年芸で,素材も風流と同趣のものであるが,風流にくらべて歌謡性が豊かである点に特色がある。
延年の風流と連事は劇形態をもつという点で,演劇史上注目すべきものである。その成立はおそらく能に先立つと思われ,能の複式夢幻能の成立に小風流が影響したとの推定もなされているが,影響の実否はよくわかっていない。素材的にも能と初期の延年風流とは相重なるものがほとんどなく,成立の比較的新しいと思われる《多武峰延年詞章》中のいくつかが能の素材と重なる程度である。
延年は寺僧によって演ぜられることを本則とするもので,鎌倉初期の児や大衆はもちろん,風流や連事という劇形態の延年芸も寺僧によって作られ,演ぜられたのである。だが,そこには専門の芸能者の関与もあったことは注目すべきであろう。〈遊僧〉と呼ばれる存在がそれであって,室町初期の南都の延年風流などには,その活躍が顕著である。この遊僧の発生は鎌倉初期と考えられ,実態はあまり明らかではないが,〈道の遊僧〉とも呼ばれるとおり,延年芸についての専門芸人であって,記録の上では,遊僧による延年を〈道の延年〉,僧徒自身による延年を〈自延年〉などとして区別している。この遊僧は専門芸能者とはいえ,一応僧形であるが,延年にはまた,俗人の参加もあった。これはもっぱら囃子の方面を担当したものらしく,1252年(建長4)の興福寺維摩会延年に春日社の神人(じにん)季綱が召されたことが《古今著聞集》巻十六にみえているが,これなどはその早い例であろう。
延年は鎌倉・室町期を最隆盛期とするが,江戸時代には衰微するにいたる。興福寺の維摩会延年も1612年(慶長17),1714年(正徳4),39年(元文4)に催された記録はあるが,すでに年ごとの催しではなくなっていたようである。現在に延年を残す寺院は平泉の中尊寺,毛越寺,日光の輪王寺,羽黒の荒沢寺,身延の久遠寺など,ごくわずかにすぎない。なお能《安宅(あたか)》の小書(こがき)に延年の芸を模した〈延年之舞〉がある。
執筆者:天野 文雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中世芸能の一つ。貴族たちが節会(せちえ)のあとで行った遊宴の際の芸能や僧侶(そうりょ)たちが法会のあとで行った遊宴の際の芸能をいう。延年の語は遐齢延年(かれいえんねん)(長寿の意)から出たという。芸能によって心を和やかにし、寿福を祈り、災(わざわ)いを除くということである。平安時代末から室町時代にかけ、近畿を中心とした寺院で盛んに行われた。延年には稚児(ちご)が出るのが特色であり、それに猿楽(さるがく)、白拍子(しらびょうし)、舞楽(ぶがく)、風流(ふりゅう)、今様(いまよう)、朗詠(ろうえい)、小歌(こうた)など上代から中世に栄えた雑多な芸能が加わっていた。しかし、延年というまとまった芸能はなく、各種多様な芸能が行われていたので、鎌倉時代には延年を乱遊ともいった。延年の流行とともに、寺院においては遊僧(ゆそう)とよばれる芸能に巧みな僧が生まれた。東大寺、法隆寺、園城寺(おんじょうじ)、興福寺、多武峯(とうのみね)(現、談山(だんざん)神社)、周防(すおう)(山口県)仁平寺(にんぺいじ)、奥州平泉の中尊寺、同毛越寺(もうつうじ)などの延年が有名であった。多武峯延年には開口(かいこう)、連事(つらね)(「れんじ」とも)、大(だい)風流、小(こ)風流などが行われており、大風流、小風流には古い猿楽能を彷彿(ほうふつ)させるものがあった。興福寺延年には寄楽(よせがく)、振舞(えんぶ)、舞催(ぶもよおし)、僉議(せんぎ)、披露(ひろう)、開口、射払(いはらい)、間駈(あいがけ)、連事、糸綸(いとより)、遊僧、風流、相乱拍子(あいらんびょうし)、火掛(ひがかり)、白拍子、当弁(とうべん)、走(はしり)、散楽(ちりがく)などの曲が行われていた。中尊寺や毛越寺の延年では呼立(よびたて)、田楽踊(でんがくおどり)、路舞(ろまい)、祝詞(のっと)、老女、若女、児舞(ちごまい)、京殿舞(きょうでんまい)、「延年」、舞楽などという曲が今日も行われているが、その曲目中、老女、若女、京殿舞は古い猿楽を想像させるし、「延年」とよんでいる留鳥(とめとり)、卒都婆小町(そとばこまち)、女郎花(おみなめし)、伯母捨山(おばすてやま)の四番の古能の構成は、今日の能が完成する直前を思わせるものである。延年のなかのさらに狭義の「延年」として、能完成直前の古い能が行われているところに、延年のなかから能が発展していった過程を知ることができる。延年は日本芸能を育てた温床の場としてその文化史的意義は大きい。
現存する延年には、岩手県西磐井(にしいわい)郡平泉町の毛越寺(1月20日)、同中尊寺(5月4日)のほかに、栃木県日光市の輪王寺(りんのうじ)(5月17日)、岐阜県郡上(ぐじょう)市白鳥(しろとり)町の長滝(ながたき)延年(1月6日)、島根県隠岐(おき)国分寺(隠岐の島町)の蓮華会舞(れんげえまい)(4月21日)などがあり、現在もなお昔のおもかげを伝えている。
[後藤 淑]
『能勢朝次著『能楽源流考』(初版・1938/再版・1979・岩波書店)』▽『本田安次著『延年資料その他』(1948・能楽書林)』▽『林屋辰三郎著『中世芸能史の研究』(1960・岩波書店)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…寺院の延年において演ぜられた,言葉を主体とした芸能。その実態をよく伝えるのが1544年(天文13)書写の《多武峰(とうのみね)延年詞章》の開口7編で,それによればまず仏法の功徳などが述べられたあと,一定の題材に沿った洒落や秀句が比較的長く語られ,最後に延年の場に来臨した諸衆を祝福するという形になっている。…
…神の尸童(よりまし)として神聖視される男児が演ずる舞。寺院における法会のあとの延年(えんねん)や,神事の場で演じられる。稚児の舞う舞楽は別に稚児舞楽の称がある。…
…尺八の同類である一節切(ひとよぎり)も輸入され,このほうは一般庶民の楽器として,箏や三味線と合奏されたり,流行歌や民謡を吹くことにも用いられた。また,僧徒の遊宴で行われていた延年と称する総合芸能の中に〈越天楽歌物〉も含まれていたが,それらに基づいて北九州に筑紫流(つくしりゆう)箏曲(筑紫箏)が興った。社会的にも混乱の時代であった室町後期は,芸能の面においても混乱の時代であったといえる。…
…前者の代表は祇園会(祇園祭)に京の町衆によって引かれる山鉾であるが,現在の趣向は,応仁の乱後の1496年(明応5)復興以降の趣向が定着したものである。 中世の大きな美意識の潮流ともいえる風流の精神は,日常生活はもとより,同時代の芸能である延年(えんねん)や能・狂言にも影響を与えた。
[延年の風流]
寺院の法会のおりの延年には,〈大風流〉〈小風流〉と呼ばれる演目がある。…
…その媒体となったのが,奈良・平安時代に輸入され普及した外来の楽舞――伎楽(きがく),舞楽(ぶがく),散楽(さんがく)であった。伎楽は早くに滅びたが,その師子(しし)の芸は,二人立ちの獅子舞となって民俗芸能に大きな分野を占め,舞楽は平安時代に著しく日本化され,のち,延年(えんねん)や猿楽能(能)の舞に影響を与え,散楽は,田楽(でんがく)や猿楽を育てる大きな要素となった。
[延年の舞]
延年は,興福寺や延暦寺などの近畿の諸大寺をはじめ,各地の寺院で行われた芸能で,平安末から鎌倉時代にかけて栄えた。…
…比叡山をはじめ,法勝寺,多武峰(とうのみね)妙楽寺,日光輪王寺,出雲鰐淵寺など各地方の中心的天台寺院の常行堂の後戸(うしろど)にまつられた。その祭祀は,たとえば輪王寺の《常行堂故実双紙》によると,修正会と結合した常行三昧のなかで,この神を勧請して延年が行われ,七星をかたどる翁面を出し,古猿楽の姿を伝える種々の芸能が演ぜられた。平泉毛越寺常行堂には今もこうした延年が伝えられ,摩多羅神とおぼしい翁が登場して祝詞を唱える。…
…日本の芸能の中には,早くから問答体による一種の劇が成立していたらしく,《玉葉》治承2年(1178)11月2日条には,春日祭に赴いた勅使の一行に加わる舞人が,奈良坂において検非違使(けびいし)に扮し,風刺をともなう問責劇を演じたことが見える。延年(えんねん)や猿楽能にも,一曲の見せ場を導くために問答を設定する場合がある。延年の大風流(おおふりゆう)では,問答によって走物(はしりもの)などの風流衆を導き,舞楽で納め,連事(れんじ)では白拍子(しらびようし)などの歌謡を導く。…
※「延年」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加