日本歴史地名大系 「北助任庄」の解説
北助任庄
きたすけとうのしよう
名東郡のうちにあり、奈良春日社領。「中臣祐春記」正応二年(一二八九)四月二一日から二六日まで間のいずれかの日の記事として「阿波国北助任庄へ三方神人三人被テ沙汰之間、麦以下物無さ右不可成云々」とあり、現地に三方神人を派遣することが決められている。このことから当時現地では領有をめぐっての混乱が発生していたとみられ、同じ日に現地へ下す下文の作成が行われている。しかしこの下文については、同月二六日条によれば神主が下すのか、別会所もしくは公文所が下すのかが問題となったようである。さらに同日には奈良興福寺衆徒から北助任への神人下向を催促されたが、春日若宮神主祐春は、神人は用意しているが、下文のことに関して訴人の定賢房と議論しているので決着がついたなら下向させると返事をしている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報