千草村
ちくさむら
[現在地名]菰野町千草
鈴鹿山脈水晶岳(九五四・一メートル)の東麓にあり、村の東方を巡見街道が走る。千種とも書く。北には枝郷福松村、東方には同岡村があり、千草三郷としてのまとまりをもっていた。中世、近江に向かう千草越の要衝であった。天正一二年(一五八四)頃の織田信雄分限帳によれば、千草郷では萱生氏が一七〇貫、山本藤次郎が二〇〇貫、国枝伊右衛門が一六〇貫、千草氏が九五〇貫文を知行している。江戸時代は初め桑名藩領、文政六年(一八二三)以降武蔵忍(現行田市)藩領、天保一四年(一八四三)以降幕府領で信楽(現滋賀県)代官所支配、安政元年(一八五四)以降再び忍藩領。
千草村
ちくさむら
中世の佐用庄に含まれていた村。千草郷ともみえる。「播磨国風土記」宍禾郡柏野里の条にみえる敷草村を前身とするとみられる。同村の村名は、国争いをした神に対して草を敷いて神の座としたのがその名の由来という。チクサの呼称については、シキクサをシクサと縮め、さらにチクサと訛ったとする説が有力。建長二年(一二五〇)一一月日の九条道家初度惣処分状(九条家文書)に載る光明峯寺(現京都市東山区)領の部に「播磨国千草村」とみえ、本家は右大臣九条忠家、年貢は光明峯寺の寺用不足および修理料に充てられ、残余があれば本所へ返納することになっていた。また同処分状に載る九条忠家の新御領の部にも播磨国佐用庄内八ヵ村のうちとして千草村がみえる。
千草村
ちくさむら
[現在地名]洲本市千草甲・千草乙・千草丙・千草丁・千草戊・千草己・千草庚
上物部村の南から柏原山地北斜面一帯を占める。ほぼ北流する猪鼻川・宮谷川・竹原川が北部で落合って千草川となり、北流して洲本府に至る。津名郡に属する。正保国絵図に村名がみえ、高四五一石余。天保郷帳では高五一五石余。反別戸数取調書によれば反別九三町六反余、高六二五石余、うち蔵入高一七石余、九四九石余が稲田九郎兵衛ほか四名の給知。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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