宍粟郡(読み)しそうぐん

日本歴史地名大系 「宍粟郡」の解説

宍粟郡
しそうぐん

面積:七一八・九〇平方キロ
山崎やまさき町・安富やすとみ町・一宮いちのみや町・波賀はが町・千種ちくさ

兵庫県の中西部に位置する。郡域は東西に横たわる中国山地の分水嶺に北境があり、南端は姫路市に接し、東西約三二キロ・南北約四〇キロの広範囲にわたる。北東は養父やぶ郡、東は朝来あさご郡・神崎かんざき郡・飾磨しかま郡、南は姫路市、南西は揖保いぼ郡、西は佐用郡・岡山県、北西は鳥取県に接する。中国山地の南側面に位置し、全般的に北が高く、南が低いため、郡域を貫く揖保川・千種川の二つの水系は瀬戸内海に向かって南流する。鳥取県境の郡内最高峰の三室みむろ山は標高一三五八メートルで、以下一〇〇〇メートル級の急峻な山々が連なり、河川沿いのわずかな平地以外は山地である。姫路市から鳥取市まで通じる国道二九号が安富町山崎町一宮町波賀町へと北上している。東西の動脈として中国自動車道が山崎町・安富町を走っており、山崎インターチェンジは当郡と阪神地域を結ぶ連絡口となっている。

当郡は古代から近世まで播磨国北西部に位置し、東を神崎郡・飾磨郡、南を揖保郡、西を美作国・因幡国、北を但馬国養父郡に囲まれていた。近世の郡域は現在の一宮町・波賀町・千種町・安富町・山崎町および佐用郡南光なんこう町の北部、揖保郡新宮しんぐう町の北端部にあたる。郡名の表記と訓は、「和名抄」高山寺本が「宍栗郡」と記し、訓を欠く。しかし同書東急本国郡部は「完粟郡」と記し、訓を「志佐波」としている。後述のように古代の木簡などから表記は宍粟郡であったと思われるが、近世の慶長国絵図や元禄郷帳・天保郷帳にも「完粟郡」とみえる。訓は「拾芥抄」や「和名抄」名博本、享保八年(一七二三)版本の「延喜式」神名帳にシサハとある。「播磨国風土記」には「宍禾郡」とみえ、郡名の起源は伊和大神(現一宮町の伊和神社に比定)が領内の矢田やた村で舌を出した大きな鹿と出会ったので、シシアワ(鹿に遇うの意)から名付けたという。一説に宍は肉の意で、禾は穀物のことであるから、狩猟と農耕を基盤とする地域であったことにちなんで郡名を付けたともいう。

〔古代〕

地名としては、「日本書紀」垂仁天皇三年三月条が「一に云はく」として天日槍命が播磨国「宍粟邑」にいたと記すのが早い例である。郡名の初見は藤原宮跡出土木簡の表裏にみえる「宍粟評小□□」「山部赤皮□□」とされ、その成立は「播磨国風土記」宍禾郡比治ひじ里の条によると、孝徳天皇の時に揖保郡から分れたという。郡名の表記としては、現奈良県明日香あすか村の飛鳥池あすかいけ遺跡や平城宮跡の出土木簡に「宍粟郡」「宍禾郡」、「播磨国風土記」餝磨しかま伊和いわ里の条に「積郡」の用例がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報