三重郡(読み)みえぐん

日本歴史地名大系 「三重郡」の解説

三重郡
みえぐん

面積:一二九・一〇平方キロ
川越かわごえ町・朝日あさひ町・菰野こもの町・くす

現在の三重郡は県の北部に位置し、四日市市の北に川越町・朝日町、西に菰野町、南に楠町と、分散して隣接する四町よりなる。川越・朝日両町は、員弁いなべ(町屋川)下流の三角洲上に東西に並び、東南は伊勢湾、東から北にかけて桑名市(その境界の半分は員弁川が流れる)、西から南にかけては四日市市に接する。菰野町は、北は員弁郡大安だいあん町、東から南は四日市市、西は鈴鹿山脈を境に滋賀県と接する。楠町は鈴鹿川下流三角洲にあり、北から西は四日市市、南は鈴鹿市、東は伊勢湾に臨む。朝明あさけ川・海蔵かいぞう川・三滝みたき川は、西方鈴鹿山脈に発し、西部丘陵を開析して東流、うち朝明川は下流が朝日・川越両町を過ぎて伊勢湾に入る。古代から近世にかけての三重郡は、北は海蔵川、南は内部うつべ川によって限られる地域。その大半は現四日市市に含まれ、わずかに菰野町南半と、楠町が郡部にとどまり、これと旧朝明郡に属する菰野町北半と、川越・朝日両町で現三重郡を構成する。

三重の地名は「古事記」景行天皇の段に倭建命が尾津おつよりこの地に至ったとき「吾が足は三重の勾の如くして甚疲れたり。とのりたまひき。故、其地を号けて三重と謂ふ」との伝承による。また「日本書紀」天武天皇元年六月条には、壬申の乱に際し鈴鹿より美濃へ向かう大海人皇子一行が三重郡家に至り、家を焼いて暖をとったことがみえる。三重郡家の所在地は不明だが采女うねめ(現四日市市)に比定する説もある。藤原ふじわら(現奈良県橿原市)東面大垣外濠出土の木簡の表に「伊勢国三重郡川尻」、裏に「里人川□□□□」とあり、虫損部分に異筆で「物部(中カ)末呂」とあるのが史料上古く確実なものである。「和名抄」によれば、三重郡は采女・河後かわじり葦田あしみた柴田しばた刑部おさかべの五郷よりなる。現三重郡にはこのなかの葦田郷(現菰野町南半)と河後郷(現楠町)が入り、これに同じく「和名抄」朝明郡の豊田とよだ郷・訓覇くるべ(現川越町・朝日町)田光たびか(現菰野町北半)が入る。

〔原始〕

縄文遺跡の例はきわめて少ないが、菰野町の西江野にしえの遺跡・杉谷西方すぎたにせいほう遺跡群からは早期に属する矢柄研磨器が出土。弥生時代の遺跡は、朝日町西方の台地上に植松うえまつ遺跡・はやし遺跡、員弁川下流南岸の城山しろやま遺跡などがある。古墳は菰野町杉谷に六世紀末から七世紀初めと考えられる高塚たかつか古墳群と、黒石原くろいしばら古墳群がある。前者は五基、後者は八基の円墳よりなり、いずれも直径一〇メートルから一五メートル程度で、横穴式石室をもつ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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