千草越
ちぐさごえ
鈴鹿山脈の根の平峠(標高八〇三メートル)を経て滋賀県と三重県を結ぶ山越えの道。現在は登山道・林道となっている。中世には北方の八風越とともに伊勢道と称され、近江と伊勢を結ぶ商業路として利用された。千種越・根平越・千草道などとよばれ、「ちくさ」ともよむ。甲津畑から渋川沿いに雨乞岳北山腹を登り、杉峠(標高一〇四二メートル)、神崎川上流部水晶谷を経て御在所山北方の根の平峠を越え、伊勢に入る。伊勢川では朝明川沿いに東へ下り、千草(現三重県三重郡菰野町)を経て桑名・四日市へ至る。甲津畑までの近江側の経路は、山上・高野付近で八風街道から分岐する道と、蛇砂川沿いに布引山丘陵北部から市原を経て甲津畑へ通じる道(市原道・夷大道)があったらしい。弘治二年(一五五六)九月一四日、山科言継は守山を発って未刻甲津畑へ着き、休息ののち千草越を通り戌刻伊勢の根代(現菰野町か)に到着した(言継卿記)。
千草越
ちくさごえ
北の八風越とともに、中世鈴鹿山脈を横断して伊勢国と近江国を結ぶ山越えのひとつ。一般的には、近江国甲津畑(現滋賀県永源寺町)から根の平峠(八〇三メートル)を経て、朝明川に沿って伊勢国千草・杉谷に至り、桑名あるいは四日市に出る。弘治二年(一五五六)駿河へ下向する山科言継は、九月一四日石寺(現滋賀県安土町)から河津
(甲津畑)に至り休息した後、峠越え四里で根代に着き一泊している。翌一五日根代で人夫を雇い、三里の行程で千草に出た。千草では、千草三郎左衛門を訪ねたが不在で会えなかった(言継卿記)。また「信長公記」によれば、織田信長は元亀元年(一五七〇)京都から岐阜への帰路千草越の途中で佐々木承禎に頼まれた杉谷善住坊なる者に鉄砲を打ちかけられることがあった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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