南斎田浦(読み)みなみさいたうら

日本歴史地名大系 「南斎田浦」の解説

南斎田浦
みなみさいたうら

[現在地名]徳島昭和町しようわちよう五―八丁目・中昭和町なかしようわちよう五丁目・南昭和町みなみしようわちよう五―七丁目・万代町ばんだいちよう六―七丁目

新浜しんはま浦の北方新町しんまち川河口右岸、園瀬そのせ川左岸にある。西は富田とみだ浦。はじめ同浦地先の砂洲であったが、江戸時代初期に干拓され塩田が開かれたという。南財田・南才田とも記される。正保国絵図に南才田浦とみえ、高一七石余、新田と記される。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳には記載がない。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳には南斎田村とみえ、蔵入高八〇石余。文化三年(一八〇六)の名東郡中地高物成調子帳(四国大学凌霄文庫蔵)によれば富田組に属し、一円蔵入地で高二二二石余、物成九七石余。同一〇年の高都帳では高二六九石余。「阿波志」には土田は下等水陸田雑と記される。旧高旧領取調帳では高三一〇石余すべてが蔵入地。御山下ごさんげ二一ヵ村の一。文政五年(一八二二)の名東郡村浦男女人数改指上帳(民政資料)によれば家数二〇八・人数一千六五(男五二九・女五二七・僧一・修験一・座頭二・尼五)。浦方として自然加子が置かれ、近世後期の安宅御用向御両国浦々加子数書付并自然加子共(岩村家文書)では自然加子一五一人とある。藍作も行われ、元文五年(一七四〇)の藍作見分記録によれば、藍葉の反当り収穫量は南斎田浦は平均(辻)一八貫・上作二五貫、斎田浦は平均二三貫・上作三〇貫。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android