厚沢部村
あつさぶむら
近世、厚沢部川とその支流沿いのアッサブ沢と称された地域に成立した散在集落の総称名。現在の厚沢部町域と江差町の北部域を含む。「阿津左不」「厚佐部」(福山秘府)、厚沢辺(蝦夷巡覧筆記)、「葦寒」「アシサブ」(蝦夷喧辞弁)、「厚沢」(遠山・村垣「西蝦夷日記」)などとも記される。近世後期には地域内に目名村・土橋村・俄虫村・赤沼村・鶉村・安野呂村・コサナイ村・ニコリ川村・館村などの集落ができ(「渡島日誌」など)、明治初年に目名村・安野呂村など七ヵ村が成立(「渡島国地誌提要」など)。厚沢部は地域名称となった(「西蝦夷地場所地名等控」など)。
「津軽一統志」に「あつさぶ村 川有 しやも狄共に入交り」と記され、和人とアイヌが混住していた。延宝六年(一六七八)「始令山人伐西部阿津左不山中之檜樹」と、厚沢部の檜山開発が始まり、当地は山稼人たちが住し活況を呈した。しかし元禄八年(一六九五)上ノ国から厚沢部までの山火事が発生、山稼人たちを困窮させたという(「福山秘府」など)。
厚沢部村
あつさぶむら
明治三九年(一九〇六)から昭和三八年(一九六三)までの自治体名。明治三九年に檜山郡目名村・土橋村・俄虫村・赤沼村・安野呂村・鶉村・館村が合併、二級町村制を施行して成立。村役場を俄虫に置いた。合併時から農耕地開拓のための移住者誘致に努め、同四一年の「移住地として全道中稀なる農耕地」であるとの新聞記事掲載の効果もあって、しだいに移住者が増えていった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 