大野村
おおのむら
[現在地名]市川市大野町一―四丁目・南大野一―三丁目・下貝塚二丁目
柏井村の北西に位置し、北は大町新田、南西は下貝塚村。舌状に張出した台地によって挟まれた低地に水田が広がり、台地上は畑となっている。当村の村域は現市川市域では最大で、集落は殿台・御門・迎米・迎新田・古里の五ヵ所に分れ、これらの集落は組ともよばれた。中世には八幡庄のうちで、大野郷として推移した。
〔中世〕
延文三年(一三五八)五月三日の日樹置文(弘法寺文書)によれば弘法寺の毎月一三日・一五日講会は「大野」などの僧俗によって勤仕されていた。なお本妙寺(法華経寺の前身)日祐が康永四年(一三四五)に記した「本尊聖教録」には信徒として大野菟又太郎の名がみえる。康暦二年(一三八〇)僧日清は顕真房日経に「八幡庄大野郷内釈迦堂・阿弥陀堂事両所合壱丁」を譲与している。同所は日清が六崎将監入道から安堵されたものであった(八月八日「日清譲状」浄光院文書)。文安二年(一四四五)には中山法華経寺の子院浄光院日戴が「大野郷導師并弟子旦那等」を浄光院に譲っている(一一月七日「日戴置文」同文書)。浄光院が大野郷に深くかかわっていたことは大永二年(一五二二)一一月の浄光院定書案(同文書)にもうかがわれ、同院は大野郷の惣導師職であるとされていた。「本土寺過去帳」には、永仁二年(一二九四)五月一日に没した曾谷法蓮(実名日礼)に「大野」と注があるのを初めとして、年紀のわかるものでは応永(一三九四―一四二八)から天正年間(一五七三―九二)にわたって地名が散見し、「大ノ米地」(現米ノ地)の法蓮寺などもみえる。
大野村
おおのむら
[現在地名]亀田郡大野町本町・字南大野・字向野・字清水川・字開発
近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した村。大野川の中流域に位置し、南方下流側は千代田村、北西方上流側は市渡村。近世は東在の村で、元禄郷帳に大野村とみえる。内陸部に形成された村落は大野村のみ。天保郷帳では枝村として本郷・千代田郷・一本木郷があげられる。
シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」の「松前より下国えの道積」に「しよやま村より一里半 大野村迄」として「家数弐拾軒計 野山道」、また「大野村より五里半 とちさきの川迄 野山坂草木」と記される。元禄一〇年(一六九七)東在の大野に新田が開かれた(松前家記)。元文四年(一七三九)には松前藩主松前邦広の命によって新田開発が試みられたが、早霜のため不成功に終わっている(宝暦一一年「御巡見使応答申合書」)。天明(一七八一―八九)後期の「蝦夷草紙別録」によると戸数五一。同六年には六〇戸弱、二五〇人弱(蝦夷拾遺)。寛政三年(一七九一)菅江真澄は知人の西村平馬重実宅を訪れているが(えぞのてぶり続)、同人は宝暦四年子の吟次郎が出奔したため戸締に処されたものを、同五年貞了尼(松前藩七代藩主松前資広母)の願いで許されて当村に追放となっていた(「旧紀抄録」宝暦四年五月一一日条・同五年一月一八日条)。寛政一〇年には四〇軒、庄屋は又左衛門であった(木村「蝦夷日記」同年五月二六日条)。この頃まで当村や文月・市渡など七ヵ村は「畑作を一業」とし、耕作は荒起しを主としていた。
大野村
おおのむら
[現在地名]大野町 赤崎・深江・中山・別府・高畑・郷・下原・塩屋・梅原・丸石など
佐伯郡沿岸の西部にあり、三方は地御前・宮内(現廿日市町)、峠・渡瀬(現佐伯町)、松原・玖波(現大竹市)の各村に接し、東南は大野ノ瀬戸を隔てて厳島に相対する。南西から北東にかけて経小屋山・権現山などの山が連なり、沿岸部を通る山陽道沿いに集落が展開する。「和名抄」の濃郷の地に比定され、「延喜式」の濃唹駅および「万葉集」巻五にみえる高庭駅は、当村高畑の地に推定されている。応安四年(一三七一)の今川了俊「道ゆきぶり」に次のようにみえる。
<資料は省略されています>
年未詳であるが天文一〇年(一五四一)と思われる三月一九日付の大内氏奉行人書状(厳島野坂文書)は「神領廿日市大野小方大滝」と記し、中世は厳島神社領であった。天正一七年(一五八九)一一月一〇日付の厳島社社家内侍等拘分付立(野坂文書)に「大野谷尻」とみえ、同二〇年正月二四日付の安芸国佐西郡大野村内打渡坪付(同文書)には「松かはら」とみえ、当時の大野は谷尻・松原を含んでいた。
大野村
おおのむら
[現在地名]大野村大野
北は濁川の水源地帯で種市村(現種市町)に接し、北西は有家川の水源地帯で久慈平岳がある。西は上館村・小軽米村(現軽米町)、南部は大野川の中流域で、水沢村に接する。東は阿子木村・帯島村。「奥南旧指録」などに天正一九年(一五九一)の九戸政実の乱に加わった当地の大野弥五郎が記される。正保国絵図に村名がみえ高一四〇石余。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳では田一石余・畑三一四石余。天保五年(一八三四)の南部領高辻帳による〆高は田一石余・畑二八〇石余。同八年の仮名付帳では枝村として明戸村・阿子木村を記載。旧高旧領取調帳では高三〇九石余。
久慈と八戸城下、軽米(現軽米町)へ通じる街道が通り、大野はその宿場であった。寛文一二年(一六七二)に切支丹と捨馬禁止の制札場が設置された(八戸藩史料)。九戸郡における鉄生産の中心にあり、玉川・葛柄(現軽米町)、大谷(現種市町)、金取(現山形村)、滝山(現久慈市)・水沢は、大野六ヵ鉄山と総称された(「鉄山御用日記」元屋文書)。元禄六年に当村の又左衛門が領内鉄問屋一手引受けの申請を八戸藩に提出し、許可された(御勘定所日記)。経営には当初当地の在郷商人晴山氏が、天保五年からは軽米村の淵沢氏が当たった(鉄山御用日記)。
大野村
おおのむら
[現在地名]都幾川村大野
椚平村の北西にある。近世には秩父郡のうちで、村域は都幾川の水源地、外秩父山地の山間に展開する。東は平村、西方は堂平山(八七五・八メートル)や大野峠(標高八五三メートル)などを境として、秩父郡芦ヶ久保村(現横瀬町)など。北西は白石村(現東秩父村)。玉川領に属し、小名に久保・向谷戸・道上・竹ヵ谷・入・並木・八木成・田ノ久保・片市・原・峰・小林・藤原・七重・鳥沢などがある(風土記稿)。「風土記稿」「郡村誌」などによれば古く鉢形城(現寄居町)城主の家人大野弾正とその子孫が当地を開き、大野谷村と称したのが村の草創という。弾正は字橋倉に館を構え(橋倉屋敷・橋倉館などという)、天正一八年(一五九〇)には松山城(現吉見町)の落人森田将監が大野氏を継いだという。近世を通じて幕府領であったと考えられる(田園簿・「風土記稿」など)。田園簿によると田高五石余・畑高一三四石余、紙舟役一七五文が課せられていた。
大野村
おおのむら
[現在地名]有明町大三東
湯江村の南東に位置し、北東は海に臨む。景行天皇が島原半島に調査のために派遣した大野宿禰が上陸した地という伝承がある。建武五年(一三三八)二月九日の一色道猷宛行状(深堀文書)に「温江大野田崎村」とみえ、村内の孫次郎入道・同四郎・同小次郎跡の田地九町などが勲功の賞として深堀政綱に与えられており、三月には施行状が出ている(同月一七日「小俣道剰施行状」同文書)。政綱が引取のため現地に赴くと、湯江弥次郎が異議を申立てたが、証拠書類を提出しなかったため暦応二年(一三三九)政綱に引渡すよう命じられている(同年八月二七日「一色道猷書下」同文書)。戦国末期、龍造寺氏を阻止するため島津氏が島原半島に出兵、天正一二年(一五八四)島津方の伊集院忠棟が大野に宿をとっている(「上井覚兼日記」同年四月五日条)。中世の城跡という大野城跡・田井原城跡がある。
江戸時代は島原藩領の北目筋に属する。慶長国絵図に「大野」とみえ、高六一〇石余。地内にキリシタンがいたが、キリスト教禁令に伴い、慶長一七年(一六一二)に勝光寺が創建されたという(大三東郷土誌)。元和二年(一六一六)の大村領預地村役人証文(大村見聞集)には「大野さし 主水」とみえ、有馬氏の転封に伴い幕府領となり、大村藩預地であった。
大野村
おおのむら
[現在地名]香川町大野
香東川の東岸に位置し、東は浅野村、南は川東下村。古代香川郡大野郷(和名抄)の遺称地。嘉慶元年(一三八七)一二月日の願成寺蔵大般若経奥書(新修香川県史)に「香東郡大野郷有本」がみえる。文安三年(一四四六)二月一六日の由佐助政に宛てた細川勝元安堵状(由佐家文書)に「井原庄安原山大野村領知之事」とあり、細川氏の有力被官由佐氏の支配下にあった。寛永国絵図に大野郷とみえ、ほかに七村をも含む大野郷の高三万五千八石余。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では大野村として高一千二八八石余。元文五年(一七四〇)の人数は九三四人(「郡別村々人数留」金倉寺文書)。享和年間(一八〇一―〇四)一時期ではあるが琉球草の栽培が行われていた(「御用留」別所文書)。池泉合符録によると水掛高五四〇石余の下井出水ほか一一の出水があったが、当村の水掛りはおもに川東下村の立満池・堀井手出水などであった。
大野村
おおのむら
[現在地名]竜北町大野
北は吉本村、東は北種山村(現東陽村)、南は立神村(現宮原町)、西は野津村と接する。薩摩街道の西にわずかに沖積平野があり、東部に台地と低い山地があって迫田を形成している。肥後豊後検地諸帳目録(県立図書館蔵)には、慶長九年(一六〇四)に「大野村二冊」、同一二年に「大野村一冊」、寛永一五年(一六三八)の地撫帳に「南大野村一冊」が存在したことを記している。正保郷帳に高一千二八〇石八斗余、うち田方九四二石八斗余・畠方三三八石余とある。中世には八代庄道前郷に属し、近世初頭に上北大野村・下北大野村・南大野村の三ヵ村に分れたものであろう。近世にいう大野村は下北大野村で、迫・本山集落にあたる。
種山往還は迫集落の東端に出て、八代・下益城郡境を流れる大瀬田川沿いに上北大野村の北端を東上し、本山集落に至る。本山集落から米山山頂近くの鳥越峠を経て路線は球磨郡五木村と五箇庄(現泉村)への二手に分れる。この鳥越は古代からの通路と考えられ、建久六年(一一九五)三月日の甲佐社領立券解案(阿蘇家文書)に「八代北郷南小河四至」として「南限八代堺嶋越」とある。
大野村
おおのむら
[現在地名]蘇陽町大野
大矢川左岸に位置し、東は竿渡村・須刈村、西は方ヶ野村、北は柳井原村、南は白石村に接する。南郷一〇ヵ村の一村で、阿蘇大宮司の私領。正治二年(一二〇〇)一二月一四日の宇治惟泰譲状写(阿蘇家文書)によると、惟泰は「おゝの」を含む先祖相伝の私領田畠である南郷一〇ヵ村を新大宮司惟継(次)に譲っている。惟継以後、大宮司職および当地を含む南郷の所領は惟義・惟景・惟資・惟国へと譲与されている(安貞二年九月一五日「北条泰時下文」同文書など)。弘安一〇年(一二八七)以後、大宮司の譲状に「大野」の記載はみられないが、同様に伝領されたと思われる。
大野村
おおのむら
[現在地名]常滑市大野町
北は大草村(現知多市)、東は小倉村に接し、東からの湊川(矢田川下流の呼称)が西の伊勢湾に入る。河口には古くから大野湊もあって両岸に町場をつくり、西浦街道の大江橋で結ばれる(天保の村絵図)。中世は大野庄の中心部であった(→大野庄)。
天正二〇年(一五九二)の屋敷地検地の尾州智多郡大野内湊村御検地帳(平野家蔵)に紺屋一六、鍛冶屋一二、大工三、桶屋二、油屋二、風呂屋一、酒造一とあり、すでに紺屋・鍛冶屋の多い町場の様子がわかる。「寛文覚書」によれば、概高三二六石余、田五反七畝余・畑一〇町九反九畝余、家数七五五、人数三千四〇二。
本能寺の変のとき家康が当村の平野彦左衛門宅に泊まったとの説がある。尾張藩二代藩主徳川光友のとき平野邸内に御殿を設けた(大野町史)。平野氏や中村氏は江戸初期の土着の代官で、平野氏は庄屋・大野御殿管理者・小倉塩浜奉行を勤め、中村氏は尾張藩家臣千賀氏配下で知多の東浦・西浦を管轄する廻船総庄屋を勤めた。
大野村
おおのむら
[現在地名]佐世保市大野町・瀬戸越町・瀬戸越一―四丁目・矢峰町・田原町・松瀬町
柚木村の西にあり、相浦川が流れる。北は石盛山、東は国見山、南は烏帽子岳がそびえる。弘法伝説を伝える眼鏡岩(ホゲ岩とも)がある。東は柚木村方面に通じる。一五世紀後半に攻防があった大智庵城跡があり、城主の松浦政を祀る宝篋印塔や関連の地名が残される。また同城の松浦定が大村氏らへの備えとして文珠岳に築いたという瀬戸越城(文珠岳城)があり、延徳年間(一四八九―九二)の築城とされているが、明応七年(一四九八)平戸松浦氏の攻撃により大智庵城とともに落城したという。
大野村
おおのむら
[現在地名]相知町大字大野
松浦川中流の右岸、大野川(松浦川の支流)流域の村。南東部に、夕日山・割石山・欠ノ木山などがある。
「和名抄」に記す大沼郷を、この大野に比定する説が有力である。大野は方言では「ううの」と発音し、平安期は松浦川沿いに海水が浸入し、多くの沼池が存在していたといわれる。この地には条里制のなごりとされる沖の坪・柵坪の字名があり、島町・大寺町・平町・式町・入道町は荘園時代を物語る小字名とされる。
村内の大野上(小字せせり谷)の丘から弥生期の竪穴住居遺跡と甕棺遺跡が発見され、甕棺からは銅戈・管玉が出土した。
大野村
おおのむら
[現在地名]平生町大字大野北・大字大野南
熊毛半島への出口辺り、大星山(四三八メートル)の北西麓に位置する。南は曾根、北は宇佐木・平生、東は伊保庄(現柳井市)の各村と接する。村内東部および南部は大星山麓で山地が多く、北西部に平地が広がる。上関宰判に属した。
中世には、国衙領と思われる大野本郡の内であった。
村名は慶長五年(一六〇〇)の検地帳に「大野庄」とあり、慶長一五年の検地帳に「大野村」、寛永三年(一六二六)の熊野帳に大野、元禄一二年(一六九九)の郷帳より大野村と記載される。村名は用明天皇の時、豊後国満能長者の娘玉誉姫が上洛の途次、鳴戸の瀬戸(大畠の瀬戸)で、渦に巻かれようとした船を救うために入水した。
大野村
おおのむら
[現在地名]鳳来町大野
三輪川左岸の段丘上にあり、川に沿って井代村が続き、対岸に寺林村・大峠村・引地村をひかえ当地方の一中心地である。天正一八年(一五九〇)吉田藩領、慶長五年(一六〇〇)徳川氏領、同八年幕府領となる。
上貝津に城山(大野城または大野砦)があり、南北朝期の山城跡で、鈴木喜三郎が築いたといわれる。比高約七〇メートル。鈴木喜三郎は足助(現東加茂郡足助町)より来て大野付近を支配し、城山の麓に臨済宗方広寺派禅林寺を建立。
大野村
おおのむら
[現在地名]小松市大野町
梯川中流左岸の山間部にあり、北東は五国寺村・正蓮寺村、北西は花坂村。嘉暦四年(一三二九)五月日の軽海郷公文大江頼業注進状案(金沢文庫文書)に、山百姓色々公事銭として大野の桑代銭一貫八〇〇文・新畠地子七貫三五文・大豆代六貫三〇〇文がみえる。山百姓のなかでの大野村の負担率は三―四割と大きい。暦応二年(一三三九)分の年貢納入状況を記した同三年八月二八日の軽海郷年貢等進未注進状(同文書)に「本郷分」「大野并河内分」がみえ、軽海郷は本郷・大野・河内の三地域から構成されていた。本郷の百姓は「里百姓」、大野・河内のものは「山百姓」と称されていた。文和二年(一三五三)三月日の軽海郷年貢等注進状(同文書)によれば、当村は「惣行事名」以下一一名から構成され、定田合計六町三反、分銭合計二八貫三六二文を数える。
大野村
おおのむら
[現在地名]糸魚川市大野・上刈四丁目
水保村の西。姫川右岸の最も広い河岸段丘上に立地。姫街道に沿って下・新舟・小坂の集落がならぶ。南は中村、対岸は大谷内村枝郷の尻掛村。正保国絵図に高四三〇石余とある。寛文七年(一六六七)の高帳では、本田地高四〇八石七斗余(うち八五石余川崩れ、以下同様)で、ほかに慶安五年(一六五二)の古新田高一七一石四斗余(八石余)、明暦四年(一六五八)の新田高九二石四斗余(二九石余)、寛文二年の新々田高四三石二斗余(二〇石余)があり、川崩分は「永代捨たり」であった。家数は五六軒で、うち大肝煎一・本百姓九・高持名子二五・物不成名子六などがいる。
大野村
おおのむら
[現在地名]栃尾市大野・大野町一―四丁目
市街地の南西に隣接し、西谷の入口にあたる。東は栃尾町村・滝之下村・天下島村、南は荷頃村、北西には城山の栃尾城跡があり、さらに本津川村・土ヶ谷村に接する。西谷川の両側に広がる谷底平野で、栃尾の町から西谷川沿いにくると、岩崎町(現表町の一部)の狭い谷間から開けた広野に出るので大野の名が生れたと思われる。栃尾城の根小屋集落で、館屋敷・佐々木屋敷などの地字が残る。地元では大野の集落を城久保、城に登る大手口を門口とよび、城自身を城ノ平と称する。永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の貫屋家兼売券案(来田文書)にみえる「大野す」は当地と思われ、伊勢御師の檀那が所在した。
大野村
おおのむら
[現在地名]前津江村大野
現前津江村域の中ほどにあり、大野川流域の大野・坂の下・板屋・下釣・仙頭屋敷・内代・栗の上・浦の寺・座目木・竹の上などの集落が営まれる。古くは津江の中心であったとされ、老松天満社が鎮座するほか、応安四年(一三七一)長谷部氏(のち津江氏)が築いたという雪嶽城があったとされる(豊後国志)。同城は津江山城ともいう。元中八年(一三九一)一〇月八日大友親氏らが津江大野に討入ったが、五条頼治は津江輩に防戦させ、これを撃退している(一二月九日「五条頼治申状案」五条文書)。
大野村
おおのむら
[現在地名]京北町大字大野
山国九ヵ村の一。大堰川上流域に位置する山間集落。川をさらに東へさかのぼれば井戸村に、南西に下れば比賀江村に達する。
古代は「和名抄」に記す山国郷に属し、中世は山国庄本郷(山国杣)内八ヵ村に含まれる。
村名の初見は宝徳三年(一四五一)八月一〇日付の山国惣庄山地寄進状写(井本昭家文書)で、山国惣庄の古老の一人として「大野村室治部」とある。天文一九年(一五五〇)の郷中名主之事(吹上家文書)によると、当村の名主として林大内蔵将監長光・林治部大丞兼氏・河原林右近尉師光・野上玄蕃允国厚・野尻雅楽介信玄・久保左兵衛時次・中林信濃時光・田中宮内允運光・河原林河内介正方の九名があげられ、約半数が口宣案を下賜されたと思われる。
大野村
おおのむら
[現在地名]山本町大野
財田川中流域右岸に位置し、上高野村(現豊中町)の南東にある。平地が広がり、北から東にかけては丘陵地が連なる。古代三野郡大野郷(和名抄)、中世西大野郷の遺称地。寛永国絵図には上大野・下大野がみえ、本山郷に属した。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では一千一四四石余、同一八年の小物成は綿一八〇匁(山崎領小物成帳)。「西讃府志」によれば村の広さは東西一五町一〇間・南北二〇町一九間。高一千一四八石余、反別一一七町三反余、うち畑一六町余・屋敷四町八反余。家数二八九・人数一千二三九、牛一〇三・馬一〇。
大野村
おおのむら
[現在地名]美山町大字大野
大野一〇ヵ村の一。由良川上流右岸に位置し、若狭(高浜)街道に沿った山間集落。川の上流左岸は萱野村、下流は岩江戸村。古代は「和名抄」に記す弓削郷に属し、中世は野々村庄の地。
慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より丹波篠山藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高三五〇・七四石、旧高旧領取調帳では三六二・一二二石。
大野村
おおのむら
[現在地名]土山町大野
野洲川右岸、市場村の西にあり、北は布引丘陵に続き、蒲生郡に接する。野洲川の右岸を東海道が東西に通じ、集落は東海道の北側に形成される。永享五年(一四三三)閏七月二五日近江守護六角満綱は大野郷を大野高能に安堵しており、大野氏は街道の警護役を勤めていたことが知られる(「六角満綱証状」大野文書)。寛正六年(一四六五)一二月一三日、同郷は一一月に生れた足利義尚の祈祷をするための不断護摩料所として、松林護国寺に寄進された(「室町幕府奉行人奉書」壬生家文書)。
大野村
おおのむら
[現在地名]臼杵市大野
田井村の南に位置し、下ノ江川と熊崎川に挟まれる。東部と西部には緩やかな山地が広がり、その間の低平地に集落がある。慶長二年(一五九七)の臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に村名がみえ高六六〇石余、うち田方四二四石余・畑方二三六石余、村位は上。同一一年の惣御高頭御帳では田井村組に属し、高六六〇石余のうち三九七石余は稲葉通孝領。同帳は村役人に源七郎など六人、惣庄屋に田井村の宗円とともに当村の平右衛門を記す。
大野村
おおのむら
[現在地名]新穂村大野
大野川を挟んで新穂町村・下新穂村の南。西は武井村、南は栗野江村(現畑野町)、東は井内村・上新穂村。「和名抄」賀茂郡の大野郷の遺称地。康永三年(一三四四)一一月一六日の足利尊氏寄進状(園城寺文書)に近江国園城寺に寄付された地頭職のなかに「大野保」とみえる。慶長五年(一六〇〇)の検地帳(大野区有)では本見出とも五万六千四五九束五把苅。田畠は四二八筆・稗年貢二〇筆。名請人は田畠一四九人・稗年貢二人。地字にかきの内・の中かやしき・やしきノ内・かミのやしき・やしき・こしまわり・大せんやしきなどの地名がみえ、かきの内は一八三筆ある。
大野村
おおのむら
[現在地名]青森市大野・旭町一―二丁目・金沢一―二丁目・北金沢一―二丁目・長島三―四丁目、長島一―二丁目・古川二―三丁目の各一部
青森町と荒川村の中間にある。貞享元年(一六八四)の郷村帳に高六六九・四石とあり、同四年の検地帳に田方二六〇町七反九畝七歩、畑方九町四反三畝一七歩、田畑屋敷合せて二七〇町二反二畝二四歩、村高二〇八五・八九八石とある。
大野村
おおのむら
[現在地名]十和村十川
川口村の東にあり、四万十川と長沢川の合流地点上流北岸を中心に、北方から長沢川に注ぐ白井川の流域にあり、上山郷下分の一村。通称地名に小貝・横臼・鍋谷・白井川がある。「土佐州郡志」は「東限藤之石、西限巨乃登、南限大川、北限白井川、東西二十五町南北七十町、村南有大川自高岡流出過村、戸凡四十余」と記す。南限大川(四万十川)というが、村域は川の南にも及ぶ。
大野村
おおのむら
[現在地名]亀岡市東別院町大野
北は春日部、西は笑路、南は大槻並、東は東掛の各村に続く谷間の村。北流する曾我谷川および南東流する栢原川の最上流部にあたる。
天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によれば高七二石、戸数二〇、高槻藩領。五穀のほかは周囲の山から薪柴を産した。
村内に阿弥陀如来と二天を安置した安楽寺がある。
大野村
おおのむら
[現在地名]輪島市大野町
稲舟村の東、高洲山(五六七メートル)の西麓台地に立地。旧町野地区の東大野に対して西大野とも称した。正保郷帳に村名がみえ、高三四三石余、田方一七町七反余・畑方五町一反余、新田高三一石余、田方二町一反余。承応三年(一六五四)の村御印の高三六八石余、免四ツ五歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高三八四石、免五ツ六歩、小物成は山役一〇二匁、苦竹役二匁(出来)、漆役二匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)。延宝二年(一六七四)の家数五七(「村々肝煎給米等付帳」円藤文書)。元禄一四年(一七〇一)惣領村との山論に敗れ、藩の材木保護政策で禁じられた七木(七種類の木)を伐採した罪で当村組合頭二名が籠舎、二年間五歩の増税となった(「山出入一件」古今文書)。
大野村
おおのむら
[現在地名]錦町大字大野
玖珂郡の北部、石見国鹿足郡(現島根県)へ抜ける石州街道傍示ヶ峠の麓の村。萩藩領前山代宰判所属。
村名は「大永ノ記録」(「山代温故録」所収)に「深川畑」の属村として「大野」とみえる。分村した時期については、字宮の本に鎮座する氏神河内神社の社記に「元来深川・大野一村ナリシヲ、元和二年ニ当両村ニ分ケ」とある(神社明細書)。「地下上申」には、庄屋一人の下に野地原・中村・柚木谷に各一人の畔頭が記され、戸数一四二軒、人口五四一人とある。「注進案」には「中ノ瀬大野村、元来両村に候処、先年より一存内に被仰付来候」とあって、中ノ瀬村と合併。村高一千一一一石四斗余、うち田二七町九反余で、高五三二石七斗余、畠一七九町余で高五七八石六斗余。
大野村
おおのむら
[現在地名]修善寺町大野
田中山の南麓に広がる狩野川支流域に開けた谷間の村。江戸時代は田方郡に属し、西は牧之郷村、東は田原野村(現大仁町)、北は下畑村(現同上)。中世は狩野庄牧之郷に含まれた。北条氏所領役帳に御馬廻衆秩父孫四郎の所領として二五貫文「豆州大野・下畑」とある。天正四年(一五七六)二月二日に北条氏光が家臣とみられる上野越後と牧之郷の有力百姓三須孫二郎に対して申請のあった同郷内大野境の山野の開発を承認している(「北条氏光朱印状」三須文書)。
大野村
おおのむら
[現在地名]山梨市大野
下石森村の西、下神内川村の南にあり、笛吹川と支流重川との合流点の平坦地に広がる。中世は大野郷とよばれた。慶長古高帳では高六八九石余、幕府領。ほかに大明神(現橋立大神社)領七斗余がある。貞享二年采地簿(臆乗鈔)では旗本河野・本田・朝比奈・山上領が設定されており、元禄郷帳では幕府領と旗本河野・本多・朝比奈領の四給。旗本山上領は五ツ六分から九ツ三分への免の高額引上げによって、寛文一二年(一六七二)に起こった農民たちの逃散により、のち給地が幕府に収公された(「寛政重修諸家譜」、寛文一二年「訴状」前田重朗家文書)。
大野村
おおのむら
[現在地名]室生村大字大野
宇陀川・室生川合流地に立地する。「日本書紀」天武天皇元年六月条に、吉野を発して東国に向かった大海人皇子の軍が「大野に至りて日落れぬ」とある。大治四年(一一二九)五月一二日の伊賀国留守所下文案(東大寺文書)によると「可早停止往古国領字竜口開発田畠及国見御杣等儀大野庄住人等企妨事云々」とある。
慶長郷帳にみる村高は九七三・一六石で幕府領(代官藤林市兵衛)。元和五年(一六一九)津藩(藤堂高虎)領となる。元禄郷帳では大野村のほか、「大野村枝郷」として上村・緑川村が分立して三村となっており、いずれも津藩領である。
大野村
おおのむら
[現在地名]輪島市町野町東大野・町野町真喜野
伏戸村の南に位置。誉田勘解由左衛門尉康俊が永禄元年(一五五八)一〇月に大野村の「切畑」を、同四年一一月三日には大野村の年貢のうち一二五文を岩倉寺に寄進している(「田地寄進状」石倉比古神社文書など)。また同五年四月二八日には当村の百姓数名が「木のかみ藤三郎みやのまへ」の田地五〇刈を同寺に寄進している。なおそのうち一〇〇文は「御伊勢御はつお」料であった(「寄進状」岩倉寺文書)。天正九年(一五八一)五月二五日、当村住人上野次郎左衛門らが「河西村」の九郎三郎に「助実」にあった畑を売却している(上時国家文書)。
大野村
おおのむら
[現在地名]芦北町大野
佐敷川上流に沿って開けた大野盆地の東側に集落があり、北は市野瀬村、南は中園村に接する。「国誌」は「事蹟通考」の説を引用して「和名抄」の巨野郷をこの地に比定するが、葦北郡には大野村(現八代市)がもう一村あるので、この説は不確定と思われる。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳に高四一五石二斗余、居屋敷二八ヵ所、家数一二四軒、人数二〇三、うち女八四・頭百姓六・脇百姓一九・名子百姓二一、牛二三・馬一二とあり、大庄屋善右衛門が記される。
大野村
おおのむら
[現在地名]玉川町大野
現玉川町北部の村。蒼社川左岸に位置し、同川筋で中村に対し、それより舟戸に至る川で高野村に接する。南は三段地村、西は摺木村、北は法界寺村に囲まれる。集落は山麓に沿って南北に並んでいる。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の越智郡の項に「大野村 定水所、川有、野山有」とみえ、村高は一七七石二斗三升である。寛永一四年(一六三七)の大野村検地帳によると、田畑面積は一二町九反、うち上田が九町五反あった。しかし村地は御馬屋村渓谷から流れる桂川、与和木村重茂谷より流れる重茂川が蒼社川に合流する地点にあるため、古来水害が多く、天明年中(一七八一―八九)・弘化元年(一八四四)・明治三年(一八七〇)・同一七年・二六年・二九年・三二年・三四年などの水害記録がある。
大野村
おおのむら
[現在地名]平戸市大野町
平戸村の南、小引村の南東に位置し、東部は平戸瀬戸に臨む。北に鞍掛山があり、西の川内峠を越えると中野村方面に通じる。永徳四年(一三八四)二月一三日の下松浦住人等一揆契諾状(山代文書)では四六人中に「ひらとのおうの若狭守広」が署名しており、当地を拠点とする者であろう。江戸時代は平戸村のうちとして扱われる場合があり、慶長九年(一六〇四)の平戸領惣目録に村名がみえ、高一一六石余。慶長国絵図および正保国絵図でも同様。明暦二年(一六五六)の田方帳抜書では平戸村内に大野免とみえ、上ノ原・神田・前田・中田などの地名が記される。
大野村
おおのむら
[現在地名]高岡市大野・高陵町・城東二丁目・明園町・駅南一―五丁目・芳野
千保川と庄川の中間、前田利長御廟の北東に位置。かつてこの地一帯が広い野原であったことにより大野と名付けられた(越中志徴)。蓮花寺村から放生津(現新湊市)までこの広野を通る道があり、古くより大野路と言伝えられていた(同書)。明暦二年(一六五六)の草高二三〇石(村御印留)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二三九石・免三ツ五歩、小物成は野役六匁(三箇国高物成帳)。灌漑は西八ヶ用水・十七ヶ用水を利用した(「郡事摘要」折橋家文書)。
大野村
おおのむら
[現在地名]高野口町大野
紀ノ川中流域右岸の氾濫原上にある。東は名倉村、西は中飯降村(現かつらぎ町)。「続風土記」に「広野の義にして地形に因りて名つくる」とある。永承四年(一〇四九)一二月二八日の太政官符案(又続宝簡集)に「応以金剛峯寺領田相博寺家政所前田并荒野永免除租税官物雑役事」として「大野村」の名がみえる。建長四年(一二五二)五月二一日の山籠寛能御影堂仏聖田寄進状(同集)に「金剛峯寺御庄政所河北大野村字北田」とみえ、大野村字北田の一段が高野山御影堂の仏餉田として寄進されている。
大野村
おおのむら
[現在地名]大子町外大野・内大野
生瀬盆地の北東部に位置し、東は高柴村。大永五年(一五二五)の当村の十二所神社棟札に「小旦那大野村住人各々同心」とあり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高にも「大野村」とみえる。「新編常陸国誌」によると天保一三年(一八四二)の検地の際に外大野・内大野の二村に分村、外大野村は田畠九三町余・分米八二五石余、内大野村は田畠六二町余・分米五七七石余であった。宝暦一二年(一七六二)から明和五年(一七六八)の御山横目役御隠密御用留帳(水府村木村進氏蔵)によると、宝暦一二年に村内の上矢倉・下矢倉両坪で山論が起こり、近隣の山横目衆の仲裁により解決がはかられ、「散野掛り合済口之事」を取交した。
大野村
おおのむら
[現在地名]松橋町大野
西は松橋村、北は曲野村、東は久具村と接する。東部を大野川が、南部を久具川が流れ、水利の便に恵まれた平坦地である。古くは八代海に臨み、海中に突出していた。建久六年(一一九五)三月日の甲佐社領立券解案(阿蘇家文書)にみえる「勾野」の四至のうちに「西限大野岸」とある。永禄七年(一五六四)一一月八日、相良氏の軍勢が大野・松橋に放火に及んだ(八代日記)。
大野村
おおのむら
[現在地名]関市上大野
津保川左岸の河岸段丘上にある山村。武儀郡に属し、北の対岸は神野村・西神野村、西の対岸は志津野村。元亀三年(一五七二)と推定される佐藤三省書状(龍福寺文書)によると、龍福寺(現加茂郡富加町)住職天猷が京都妙心寺へ出世したため、三省(忠能)が「大野三千疋」などを進上している。慶長郷帳では村高二三五石余。元和元年(一六一五)幕府領から尾張藩領となり、幕末に至る。
大野村
おおのむら
[現在地名]余目町大野
西小野方村の南、京田川の東岸にある。寛永元年(一六二四)奥山治兵衛を開祖とする開村が伝えられる。正保郷帳に村名がみえ、田方一七四石余・畑方一九石余、新田がある。慶安二年(一六四九)松山藩領、寛文三年(一六六三)庄内藩領、天和二年(一六八二)酒井忠高領、元禄九年(一六九六)幕府領、天明元年(一七八一)一部が松山藩領となり、幕府領分は元治元年(一八六四)からは庄内藩領。
大野村
おおのむら
面積:一三五・一二平方キロ
九戸高原の中心部を占め、北から東にかけては種市町、東から南にかけては久慈市、南は山形村、西は軽米町に接する。標高一五〇―二六〇メートルの丘陵地帯が広がり、北端に久慈平岳(七〇六・三メートル)がある。村の中心集落である西大野を流れる大野川を合流した有家川や高家川・夏井川が種市町・久慈市に流れ込む。
大野村
おおのむら
[現在地名]各務原市大野町・那加萱場町・那加緑町など
各務郡の西端に位置し、東は小佐野村、西は厚見郡平島村(現羽島郡岐南町)・同郡中島村(現岐阜市)、北は新加納村。集落は村内北部の微高地に東西に長く立地する。慶長郷帳に村名がみえ、高三七〇石。慶長六年(一六〇一)旗本坪内本家領となり、幕末に至る(各務原市史)。正保郷帳では田高四七石余・畑高三二二石余。慶安二年(一六四九)の検地帳(岩田文書)によれば高二五五石余、田八町三反余・畑一三町九反余・屋敷六反余。同年の新田検地帳(同文書)では高三八石余、田畑四町四反余、洪水地域のため下田・下畑が多い。
大野村
おおのむら
[現在地名]戸田市大野・内谷
美女木村の南、荒川べりにある。東は新曾村、南西は荒川を隔てて新座郡内間木村(現朝霞市)および上新倉村・下新倉村(現和光市)。元禄郷帳に内谷村(現浦和市)の枝郷として村名がみえる。もと大野原と称し、正保期(一六四四―四八)から元禄期(一六八八―一七〇四)にかけて分村したといわれる。足立郡笹目領に属した(風土記稿)。幕府領。検地は元禄一〇年に施行された。化政期の家数六一(同書)。荒川対岸の下新倉村と結ぶ大野渡は創設年代不詳。
大野村
おおのむら
[現在地名]身延町大野
南流する富士川西岸に位置し、北は梅平村。正保三年(一六四六)から四九石余が当村内の日蓮宗本遠寺の寺領となり幕末に至る。慶長古高帳に大野とみえ、高一一四石余。延宝五年(一六七七)改の寛文一一年(一六七一)の検地帳(県立図書館蔵)によると、高五四石余、本遠寺領は除かれており、反別は下田一反余・下々田八畝余、上畑二町余・中畑二町五反余・下畑二町一反余・下々畑二町余・山畑七反余・苅立畑二町五反余、屋敷二反余。
大野村
おおのむら
明治三三年(一九〇〇)に大野・文月・本郷・千代田・一本木・市渡の六村が合併して成立した一級町村。旧村名を継承する六大字を編成。昭和三二年(一九五七)まで存続。明治三三年の戸数一千二〇・人口七千一三九(「町村別戸口表」市立函館図書館蔵)。同三四年大野尋常高等小学校から市渡小学校が分離し、市渡尋常小学校が成立した(大野村史)。同三五年一二月には北海道鉄道函館―本郷間が開通し、本郷駅(現JR函館本線渡島大野駅)が設置された(北海道鉄道百年史)。工事には同年の大凶作で困窮した村民も従事した。同三八年・同三九年も凶作で、同三九年の戸数一千三六〇・人口七千九〇〇、田一千五九九町余・畑四八四町余、米の収穫高約一万九千石。
大野村
おおのむら
[現在地名]加古川市加古川町大野
中津村の東、加古川左岸に接する。当地の日岡は「播磨国風土記」賀古郡の条に、鹿が比々と鳴いたことから日岡と号したと記される。慶長国絵図に村名がみえ、その西に、「南条」「中村」「中条」を記載する。正保郷帳によれば田方一千二五〇石余・畑方五四石余、ほかに日向大明神社(現日岡神社)・常楽寺(現高野山真言宗)領高一〇石。元禄郷帳では高九六二石余。これには大野新村の高が含まれる。年未詳の村明細帳(荒木本家文書)によれば高一千二八二石余、うち常楽寺領高五石・日向大明神領高五石、永引三八石余、田六七町五反余・畑四町七反余、小物成は草藁銀・柿渋・請林運上・犬米・馬扶持・出人余内、広沢山、大池、郷蔵三、番屋四、家数一六九・人数八一八(明和元年)、牛三七。
大野村
おおのむら
[現在地名]柳津町大柳
周囲を山岳に囲まれ、北西は小柳津村、北東は大野新田村、東は山を越えて大沼郡出戸田沢村端村沼山(現新鶴村)。大同二年(八〇七)徳一が柳津虚空蔵堂を建立した際、用材を伐り出した跡の広い野原を開いたための村名と伝える。徳一が加持祈祷して湧出したという徳一清水が今も残る。田畑が少なく山林が多い。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高九九石余。寛文五年(一六六五)の「稲河領牛沢組郷村万改帳」では本田高一二四石余・新田高七斗余、免四ツ二分二厘余、家数一四、竈二四、男六二・女五〇、馬六で、小物成に綿役・糠藁・足前・山役があり、ほかに役漆木九〇四本余・役蝋一八貫九八七匁があり、薪を伐り、葛の葉を取って商売すると記される。
大野村
おおのむら
[現在地名]足助町野林
巴川左岸、小起伏面の端に位置し、東は沢ノ堂村、南は小田村・山中村・上国谷村、西は中国谷村・田振村、北は籠林村に接する。集落は東大野・西大野・高野山と三つに分れ、いずれも谷地形の中の山麓に点在。寛永一二年(一六三五)当時、幕府直轄地。元禄一〇年(一六九七)旗本沼間清芳の知行地となるが、同一四年沼間家は後嗣なく断絶。
大野村
おおのむら
[現在地名]哲多町大野
宮河内村・則安村の西に位置し、集落は大野本村・興産・改進・高松に散在。江戸時代初期には石賀野々上村と称し、寛永備中国絵図では高二五七石余、山崎家治先知とある。正保郷帳では二一七石余。松林少・雑木小・柴山小・芝草山中の注記があり、枝村として高松村・横谷村・田河内村・中ノ通村・楢ノ木村をあげる。
大野村
おおのむら
[現在地名]大野町大野
東黒野村の北に位置する。往古、大野が原という広大な原野があったことに由来するという。「美濃明細記」は美濃の国名にかかわる三野として大野をあげる。また「新撰美濃志」は、「日本霊異記」(狐を妻として子を生ま令むる縁)に「三野の国大野の郡の人、妻とす応き嬢をめて路を乗りて行く」云々とある話を当地辺りのことであろうとしている。「延喜式」兵部省の諸国駅伝馬条にみえる大野駅は当地にあったとする説がある。年未詳九月吉日の稲葉一鉄・同貞通新知行寄進目録(中都留一郎氏所蔵文書)に大野一〇〇疋とある。慶長郷帳に村名がみえ、高三六一石。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では西尾嘉教(揖斐藩)領。
大野村
おおのむら
[現在地名]養老町大野
舟付村の南、揖斐川右岸に立地する。集落は堤に沿い、西は下笠村。慶長年間(一五九六―一六一五)と推定される三月二〇日の徳永寿昌折紙(野村弘氏所蔵文書)に「舟付大野さかい」とあり、同地より栗笠村の新圦までの堤を防護するよう命じている。慶長郷帳に村名がみえ、高一一三石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳によると幕府領で高一〇七石余。正保郷帳では尾張藩領で田八一石余・畑二六石余、野年貢一二石とあり、新開として畑一石余があった。明暦覚書によれば元和五年から尾張藩領で、概免六ツ五分二厘、人数一六四、馬一二。「濃州徇行記」には家数六〇・人数三〇四、馬三とあり、村況を「伊尾川の西堤傍に民戸散在し南北へ長き村なり、堤内外に民戸あり、竹木茂り村立大体よし(中略)作物は麦の外稗、唐黍、大豆、木綿、、大根などつくれり、此村は一体高に准じては人多き故隣村の田地を請作するとなり、高持は四十戸、無高は廿戸あるよし」と記す。
大野村
おおのむら
[現在地名]耶馬渓町大野
津民川中流域にあり、東は中畑村、北西は川原口村。もと津民村の内で、幕末に独立したと考えられる。文久三年(一八六三)の「豊前志」に村名がみえる。旧高旧領取調帳では高五八二石余。津民谷の中心集落で、庄屋は津民・大野両氏で、大庄屋兼帯の時もあった。文化九年(一八一二)の百姓一揆の際、大野氏(小川小平次)宅は多志田村(現本耶馬渓町)の一揆勢に焼打ちされたという。
大野村
おおのむら
[現在地名]広陵町大字大野
馬見丘陵東部、高田川に沿い、沢村の南に位置する。承平七年(九三七)二月の信貴山寺資財帳写(信貴山文書)に「在大和国広湍郡十五条三里字鬼取畠者、承平五年正月十一日施入」とある。鬼取は当村小字オンドリに該当し、現在の高田川におん登里橋の名が残る。ちなみに「日本書紀」天武天皇一〇年一〇月条「広瀬野の行宮」を「大和志」は当村に擬定する。
慶長郷帳にみえる村高二八六・一七石で幕府領(代官北見勝忠)。
大野村
おおのむら
[現在地名]夷隅町大野
札森村の南東、国府台村の南西方、夷隅川右岸に位置し、支流の大野川流域に集落が営まれる。地内苗代台に大野城跡がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高八六二石。正保国絵図では高八六一石。元禄郷帳では高一千七五石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数一九六、旗本服部・福島領。旧高旧領取調帳では服部領五〇六石余・福島領五三三石余。荒木根山の入会秣場などをめぐる争論が繰返された(高師家文書)。八幡神社が鎮座。日蓮宗光福寺は元亨三年(一三二三)日契が竹の沢に設けた瑞竜庵を前身とし、応仁元年(一四六七)日調の代に里見義成より境内不入の黒印状を与えられ、文明一二年(一四八〇)現在地に移建したという。
大野村
おおのむら
[現在地名]洲本市大野
宇原村の西、洲本川上流部右岸、桑間山の南西にある。三原郡に属する。正保国絵図に村名がみえ、高四八六石余。天保郷帳では高七三八石余。金屋組に属した。反別戸数取調書では反別八〇町八反余、高八七二石余、うち蔵入高一九二石余・給知高六六九石余。給人は稲田九郎兵衛ら一九名。ほかに広田宮村(現緑町)八幡社領二斗余があった。家数一三〇・人数六一五。溜池は濁池など約二〇ヵ所があった。
大野村
おおのむら
[現在地名]金峰町大野
池辺村の北、堀川流域に位置する。東は金峰山北岳、西は海に面した吹上浜にかけての地域である。伊作筋が南北に通る。中世は伊作庄に含まれ、庄内の大野名が当地にあった。近世は田布施郷のうち。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳によれば高二千一三八石余。享保七年(一七二二)の大御支配方万日帳(金峰町役場蔵)では田高一千石余・畑高二八〇石余。「三州御治世要覧」では延享(一七四四―四八)頃の高一千三九六石余。慶応四年(一八六八)の総廻取調帳(金峰町役場蔵)によると田方六九町六反余・畑方一二九町八反余、高一千三七五石余、百姓家数一八〇・人数四七二、用夫一五八。
大野村
おおのむら
[現在地名]沢内村大野
新町村の南に位置し、和賀川上流両岸の河岸段丘上に耕地と集落がある。南北に抜ける沢内街道に沿う街村。近世を通じて公的には沢内村に含まれた。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえ、蔵入高一五〇石余、七ヵ年平均の免は二ツ三分四毛。当村新田分は同高一石余、同免八分二厘六毛。「邦内郷村志」では蔵分三〇〇石余・給分七三石余。もとは新町村に属したとある。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数五七、うち本村一六、枝村の塚根三・杉ノ下三・小田沢五・内野沢一五・文訳(分訳)一五。
大野村
おおのむら
[現在地名]中土佐町久礼
綱付山(八四二メートル)を主峰とする山並の支脈にある水谷山(三一八メートル)と青木崎を結ぶ稜線の南麓に位置し、北は安和村(現須崎市)、西は鎌田村、東は海。南に土佐十景の一つ双名島を望む。鎌田村とは大野坂越で、安和村とは比曾坂越で結ばれていた。天正一六年(一五八八)の久礼分地検帳に久礼村の小村として大野村がみえ、地積九町三反余、ヤシキ一八筆で、久礼城主佐竹氏分。
大野村
おおのむら
[現在地名]秋田市仁井田 大野
二井田村の西部にある支郷。古川と猿田川に挟まれた低地。大野潟があった。大野潟とその東の二ッ屋潟とは接続した潟であったが、潟中島開田のため二分されたといわれる。
元禄九年(一六九六)七月二四日大野村南方の古川べりで、久保田藩士と百姓が争い、武士と大野村農民の抗争へ拡大、同年一〇月一二日大野村百姓二一人と新田(二井田)村の肝煎一人計二二人が斬殺された(仁井田村郷土誌)。
大野村
おおのむら
[現在地名]一宮市浅井町大野
木曾川の南岸にあり、北から木曾川・御本堤通・大江用水が東西に流れる。西は極楽寺村に接する。河田の来徳寺蔵の明応五年(一四九六)八月の阿弥陀如来絵像裏書写(塘叢)に「実如判、大谷本願寺下野報恩寺門徒尾州葉栗郡上門間庄大野郷河田村善了」とあって、大野郷と称していた。浅井町尾関の善徳寺蔵の永正一七年(一五二〇)と推定される阿弥陀如来絵像裏書に「大野村」とみえる。
慶長一四年(一六〇九)に宮田杁を初めて伏せた場所で、のち寛永五年(一六二八)宮田村(現江南市)へ場所替した。
大野村
おおのむら
[現在地名]若桜町大野
中原村の東、八東川沿いに位置し、若桜往来が通る。枝郷に橋詰・本立・寺前・栃本がある。天文一四年(一五四五)二月吉日の広峯神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚家の檀那村付帳に「大野村一ゑん やと 助さへもん」とみえ、永禄四年(一五六一)八月吉日の福島甚二郎末国売券(来田文書)にも「大野一円」とみえる。藩政期の拝領高は一三八石余、本免六ツ。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高一六〇石余、竈数二〇余。
大野村
おおのむら
[現在地名]吉野町大字三茶屋
竜門岳の東南麓、柳村の東、東西に通じる伊勢街道と宇陀郡へ抜ける道との交差点に位置する。北隣は宇陀郡牧村(現宇陀郡大宇陀町)、南は色生村を経て吉野川筋に至る。寛永郷帳には「牧ノ大野村」、寛文郷帳には「竜門ノ大野村」と注をつけて書き、「国栖ノ大野村」と区別する。竜門郷のうち。慶長郷帳では村高二二〇・三二石、幕府領(代官辻子和泉)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となり、延宝七年(一六七九)再び幕府領となる。この間、同藩の二割半無地高増政策で村高は二七九・九六三石となる。
大野村
おおのむら
[現在地名]姫路市上大野一―七丁目・大寿台一―二丁目・西大寿台
飾東郡に所属。船場川の支流大野川の上流域に位置し、東は平野村・広嶺山。中世は平野北条・平野南条のうちに含まれていたとみられる。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代を通して姫路藩領。大庄屋支配は野里村と同じ。
大野村
おおのむら
[現在地名]大津市真野大野一―二丁目
家田村の北にあり、南を真野川が東流する。康永三年(一三四四)の亮性法親王庁解(妙法院文書)に、妙法院門跡が管領する「綾少路勝安養院等」所轄の庄園として大野庄がみえ、鎌倉初期の妙法院門主の実全が円実法眼より譲与されて以来、同門跡領として相承されている。応永年間(一三九四―一四二八)には青蓮院門跡領となっている(青蓮院文書)。天正一一年(一五八三)八月の御蔵入目録(浅野家文書)に大野村三〇〇石とある。同一三年九月四日の近江国大野村百姓中連署請文(壬生家文書)に大野百姓中とあり、従来どおり筵売買をし直納することを壬生家の外記に約束している。
大野村
おおのむら
[現在地名]日置川町大古
北は矢田村、南は古屋村、東は日置川を隔てて安宅村と相対し、西は日置浦。日置川の右岸にある。中世は安宅氏の支配下にあったと伝える。慶長検地高目録では「大野古屋村」(高三一五石余)のうちに含まれ、のち大野村と古屋村とに分村。天保郷帳によれば当村は一七五石余。周参見組に属し、「続風土記」によると家数七三、人数二四六。元禄一三年(一七〇〇)に大野御仕入役所が開設され、正徳五年(一七一五)に一時閉鎖されたが、享保八年(一七二三)に再開した(南紀徳川史)。
大野村
おおのむら
[現在地名]本宮町上大野
和田村の東隣、筌川(現大塔川)の北にある。永正四年(一五〇七)一〇月二八日付の文書(中原家文書)に大野西垣外の借屋二郎が畠を売却したことがみえる。慶長検地高目録によると村高一二六石余、小物成五・七二九石。和歌山藩新宮領で受川組に属した。明和―寛政(一七六四―一八〇一)頃には家数五二で、村高は一〇七石余に減少している(新宮領分見聞記)。これは南の蓑尾谷村が分村したためで、新宮藩御勘定方旧記(「和歌山県史」所収)は延宝七年(一六七九)の分村とする。
大野村
おおのむら
[現在地名]葉山村大野
赤木村の西にあり、四周を杉ノ川村に囲まれる。地名の起りについて「土佐州郡志」は「旧ト原野也故名」と記す。天正一六年(一五八八)津野半山地検帳には大野谷と地名がみえ、地積二町八反余、ヤシキ七筆。うち津野氏直轄領二町四反余は、名本高橋孫兵衛の扣地。三反余は津野氏の家臣津野新介の給地。
江戸時代には半山郷の一小村で、元禄郷帳による本田高は一九六石余、寛保郷帳も同高で戸数四四、人口二三一、馬三五、猟銃一五とある。
大野村
おおのむら
[現在地名]西淀川区大野一―三丁目・百島一―二丁目など
大和田村の南にあり、東西を神崎川分流で画される。延宝検地以前の高を示すと思われる天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳では葭高一九八石余、幕府領。元禄郷帳でも幕府領、享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調では高二四三石余・除地二石余、幕末にも幕府領。大野川沿いにある産土神の住吉神社は正保元年(一六四四)勧請といい、当村の開発もこの頃とみられる。浄土真宗本願寺派乗願寺は同四年祐存の開基(西成郡史)。
大野村
おおのむら
[現在地名]香住町大野
大谷村の南西に位置し、矢田川右岸の大野・下大野、同左岸の浅井の集落がある。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「大のゝ村」とあり、当地には原若狭守殿や「大かミ殿」などが住し、伊勢神宮の御師吉久は神札を二〇枚ばかり配っている。近世の領主の変遷は間室村に同じ。
大野村
おおのむら
[現在地名]安八町大野
森部輪中の西部に位置し、南東は善光村、西は中須輪中。村名は往古、広大な草野があったことに由来するという(名森村史)。慶長郷帳に村名がみえ、慶長一五年(一六一〇)の徳川家康朱印状写(徳川林政史研究所蔵)によると、大野村の二五四石余が石河光忠(のち石河氏は尾張藩家老)に宛行われている。同一七年から尾張藩領となり、幕末に至る。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では尾張藩領。正保郷帳では田高一五五石余・畑高九六石余・桑木高二石余。
大野村
おおのむら
[現在地名]那智勝浦町大野
峯山(八七八・九メートル)の南東麓にある山村。東は口色川村。「続風土記」に「山中にては土地やゝ開けたれは大野の名あるなん」と記す。応永八年(一四〇一)二月二三日付の楞厳院経箱銘(「紀伊国金石文集成」所収)に「紀伊州無漏郡熊野色河大野村」とみえる。慶長検地高目録によれば村高一五四石余、小物成一一・一四石。近世後期の「新宮領分見聞記」によると家数五〇、村高一七六石余。
大野村
おおのむら
[現在地名]村岡町大野
福岡村の南西にあり、集落は湯舟川の支流大野川の流域に発達。同川に沿って南に向かう道は大野峠を越えて葛畑村(現関宮町)に至った。この道は近世には八井谷峠越の山陰道の迂回路として利用された。口碑によると古くは葛畑村の支村であったという(七美郡誌稿)。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「大のゝ」とみえ、当地には助左衛門殿などが住んでいた。
大野村
おおのむら
[現在地名]和泉市大野町
仏並村・槙尾山の西に位置し、父鬼川が流れる。横山谷の一村。文禄三年(一五九四)の検地帳(池辺家文書)は横山谷で一括されていて村高は不明だが、当村居住者の名請人は一〇名。寛永一五年(一六三八)の年貢高は一〇六石余、うち八・五石は大豆納(同文書)。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると、高一八九石余、幕府領。
大野村
おおのむら
[現在地名]那珂川町五ヶ山
桑河内村の南、那珂川右岸にある五箇山村の枝郷。当村で北西から流れてきた那珂川源流の一本が同川本流に注ぐ。元禄国絵図に大野村とある。石高書上帳案では郡帳高三〇石余。宝永五年(一七〇八)給知としない村に指定された(「郡役所記録」県史資料四)。「続風土記」によれば民家七、八軒がある。
大野村
おおのむら
[現在地名]朽木村大野
安曇川右岸、古川村の南対岸にある。享禄三年(一五三〇)二月二一日の御元服付御懸銭帳(朽木文書)に「庄内大野分」として九人で計四貫五〇文が記される。寛永石高帳では高七八石余、ほかに四貫六六八文。慶安高辻帳では田方四一石余・畑方三六石余、ほかに小物成銭四貫六六八文。明治物産誌では家数二五・人数一四九、牛一一、農間に炭を焼き、木綿を織る。
大野村
おおのむら
[現在地名]西区平野町大野
明石川の左岸、中村の対岸に位置し、東は慶明村。文明一〇年(一四七八)頃と推定される摂津有馬郡等檀那村付注文(肥塚文書)に明石郡「平野おほの村の新兵衛」とある。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田方一七三石余・畑方五石余、芝山あり。明石藩領押部組に所属。「明石記」によると東西一町九間・南北二七間、人数一一九・家数一八。
大野村
おおのむら
[現在地名]矢部町上寺
寺川口村・上司尾村の東に位置する。字十三本松に縄文晩期から弥生後期にかけての大野十三本松遺跡がある。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「をうの」とあり、貫高は五貫五〇〇文。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属したが正徳四年(一七一四)から一時期中島手永に属し、のち旧に復した。
大野村
おおのむら
[現在地名]東予市大野
周桑平野の北部、大明神川の中流左岸にあり、大明神川扇状地の扇央に位置する。東の宮之内村と西の旦之上村の間にある。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の桑村郡の項に「大野村 日損所、小川有」とみえ、石高は一八九石五斗、うち田方一四五石八斗六升、畠方四三石六斗四升とある。
大野村
おおのむら
[現在地名]山内町大字大野
松浦川の両岸に位置した交通の要衝にある。宮野村の東。慶長絵図に「大野」とある。
この地域は平安時代は長島庄で蓮華王院領。鎌倉時代には長島庄惣地頭橘薩摩氏の所領となり、室町時代に塚崎庄に加えられ塚崎後藤氏の領地となる。天正の初め伊万里城主松浦党の伊万里家利が竜造寺隆信に敗れ、城を捨てて住吉城に逃れ、塚崎後藤氏一九代の貴明に救いを求めた。
大野村
ううのむら
[現在地名]佐世保市木風町・山祇町
日宇村の北西、小佐世保村の南東に位置する。江戸時代は日宇村内として扱われる場合が多く、明暦二年(一六五六)の畑方帳抜書では日宇村内に大野免とある。元禄一二年(一六九九)の松浦領分絵図(松浦史料博物館蔵)では小佐世保村と日宇村の間に日宇村新枝村と記される。同年の平戸領分郷村帳でも日宇村新枝村として高一九石余。
大野村
おおのむら
[現在地名]洞戸村下洞戸
板取川左岸に位置し、対岸と東は小坂村。村の北部の山並は高賀山へと連なる。正保四年(一六四七)の洞戸村免定(河合文書)に大野分とみえる。元禄郷帳に洞戸大野村と記され、高四五石余。「濃州徇行記」によれば高一〇三石余、畑一〇町二反余、家数六〇ほど・人数三〇九、一円に鹿垣があって、紙漉が多い。
大野村
おおのむら
[現在地名]篠山市大野
今福村の西に位置する。もとは北西の矢代村と一村であったという。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「大野村」とみえ、高五七八石余。正保郷帳では田高五三九石・畠高三九石余。元禄郷帳では高五八六石余。「丹波志」では河内庄のうちで、高四一八石余。
大野村
おおのむら
[現在地名]五條市大野町
御山村・黒馬村南方に所在。「万葉集」巻一の「宇智の野」「宇智の大野」とする説がある。明応五年(一四九六)の坂合部殿証文(表野の田中家文書)に「坂合部郷殿際目之事(中略)中村大野村之堺目ハヒトツカシノ北ノ谷之南ノキシキワ中村之池迄堺目是也」などとみえ、坂合部郷に属し、「五條市史」所収の文禄二年(一五九三)の坂合部郷河南方検地帳に「合百四拾八石七升六合 内大豆三十六石三斗五升三合」とある。
大野村
おおのむら
[現在地名]西脇市大野
上野村の北に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。寛永一六年(一六三九)幕府領(兵庫県史)、明和六年(一七六九)より幕末まで摂津尼崎藩領(「御用向留帳」岡本家文書、嘉永七年「尼崎藩領郷村高辻帳」尼崎市立図書館蔵など)。正保郷帳によると田方三一二石余・畑方三四石余。
大野村
おおのむら
面積:四七・〇四平方キロ
郡中央部にあり、東は鹿島灘、西は北浦に臨み、北は大洋村、南は鹿島町に接する。北浦湖岸と鹿島灘沿岸に集落が点在する純農村で、村の中央部は関東ローム層の洪積台地(標高三〇メートル)からなり、主として畑作地であるが平地林も多い。海岸沿いに国道五一号が南北に縦貫し、鹿島臨海工業地帯の外縁地区として宅地開発が活発である。
大野村
おおのむら
[現在地名]大沢野町大野
大沢野上位段丘のほぼ中央西端に位置し、北は二松村、東は東中野村、南は横樋村。文化一三年(一八一六)完成の舟倉野用水によって開墾された。
大野村
おおのむら
[現在地名]吉野町大字南大野
吉野川沿い、矢治村の上流に立地。竜門郷の大野村と区別するために「国栖ノ大野村」(寛永郷帳)とも記された。国栖郷のうち。慶長郷帳では村高九六・一六石、幕府領(代官大久保長安)。
大野村
おおのむら
[現在地名]小原村北大野
田代川の東岸でその中流域に位置する。寛永郷帳では岡崎藩領、明治元年(一八六八)西尾藩領である。元和七年(一六二一)の三州賀茂郡小原之内岡崎領大野村検地帳(鈴木早苗氏蔵)には屋敷四筆の面積と持主が書上げられている。
大野村
おおのむら
[現在地名]奈良市大野町
横田村東方にある。「春日社記録」中臣祐賢記文永一〇年(一二七三)八月四日条の「田原住人藤源二男并弥太郎男六親交名」に「藤源二男分 兄蔵男大野住 弥太郎男分 姉一人南田原住」とある。
大野村
おおのむら
[現在地名]鯖江市大野町
丹波岳の西南麓に位置し、西は四方谷村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では片上庄に含まれる。正保郷帳に村名がみえ、田方七三五石余・畠方一五〇石。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の大野村の言及
【糸魚川[市]】より
…新潟県南西部,姫川の下流一帯を占める市。1954年糸魚川町と浦本,下早川,上早川,大和川,西海,大野,根知,小滝の8村が合体,市制。人口3万2931(1995)。白馬連峰と頸城(くびき)丘陵が南に展開し,山地が広く,上信越高原および中部山岳国立公園と白馬山麓県立自然公園に含まれている。地名はトゲウオ科のイトヨの生息する川に由来するという。[フォッサマグナ]西縁の[糸魚川‐静岡構造線]が姫川の谷を通り,これを境に東の第三系と西の古生界を分かつ,地質学上重要な地域である。…
※「大野村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」