日本歴史地名大系 「檜山支庁」の解説 檜山支庁ひやましちよう 面積:二八五〇・一四平方キロ檜山(ひやま)郡上ノ国(かみのくに)町・江差(えさし)町・厚沢部(あつさぶ)町、爾志(にし)郡乙部(おとべ)町・熊石(くまいし)町、奥尻(おくしり)郡奥尻(おくしり)町、久遠(くどお)郡大成(たいせい)町、瀬棚(せたな)郡瀬棚(せたな)町・北檜山(きたひやま)町・今金(いまかね)町渡島半島の日本海側に位置し、後志利別(しりべしとしべつ)川・厚沢部川・天(あま)ノ川流域と河口に平地が開けるほかは大部分が山地・丘陵地で、海岸にまで及んでいる。管内は一〇町からなる。当支庁は明治三〇年(一八九七)一一月の郡役所廃止により、旧渡島国の檜山郡・爾志郡、後志国の奥尻郡・久遠郡・太櫓(ふとろ)郡・瀬棚郡の六郡を管轄した。このうち太櫓郡は昭和三〇年(一九五五)瀬棚郡に合併、廃止された。支庁所在地は江差町である。檜山管内は北海道では早くからヒトが住み、旧石器時代の美利河(ぴりか)遺跡(今金町)をはじめ、縄文時代から擦文時代の青苗(あおなえ)遺跡(奥尻町)、擦文時代の小茂内(こもない)遺跡(乙部町)などがある。一五世紀半ば頃武田信広が奥尻島に漂着、その後上ノ国に入り、基盤を築いたとされる。康正三年(一四五七)のコシャマインの戦は渡島半島を舞台にアイヌと和人が戦ったとされる。しかし勝山(かつやま)館跡および後背の夷王山(いおうざん)墳墓群(いずれも上ノ国町)の発掘調査からアイヌと和人の混住・混在が確認され、複雑な関係がうかがえる。松前藩はセキナイ(関内、現熊石町)までを和人地の西在とし、西在の江差は日本海交易ルートの要という地の利と、ニシン、ヒノキアスナロ材(ヒバ材)などの積出港として栄えた。一八世紀後半には北前船による日本海交易が隆盛を迎え、全国の文人が来遊し、江差追分など独自の日本海文化を開花させた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「檜山支庁」の意味・わかりやすい解説 檜山〔支庁〕ひやま 「檜山振興局」のページをご覧ください。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by