厳嵩(読み)げんすう(英語表記)Yán Sōng

改訂新版 世界大百科事典 「厳嵩」の意味・わかりやすい解説

厳嵩 (げんすう)
Yán Sōng
生没年:1481-1568

中国,明の権臣,収蔵家。字は惟中,号は介谿。江西省分宜の人。弘治18年(1505)の進士で,世宗朝(1521-66)太子太師となり,子の厳世蕃とともに寵をたのんで専権を極めたが,たび重なる弾劾の結果,ついに失脚し家産を没収された。書室を鈐山堂といい,父子でおびただしい書画を収集した。《鈐山堂書画記》は文嘉の著した没収書画の目録であるが,王献之《鴨頭九帖》,展子虔《遊春図》などの名跡を含む。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「厳嵩」の意味・わかりやすい解説

厳嵩
げんすう
Yan Song; Yen Sung

[生]成化16(1480)
[没]隆慶1(1567)
中国,明の政治家。江西省分宜県の人。字は惟中 (いちゅう) 。武宗 (正徳帝) ,世宗 (嘉靖帝) の2朝に仕え,累進して内閣大学士となり,嘉靖 28 (1549) 年以後は首輔として政務を専断した。しかし政治上の手腕にはみるべきものがなく,帝にこびて私利をはかり,私人を引上げ,反対者を罪に陥れた。子の世蕃もまた専横のふるまいが多く,晩年には帝の信頼も薄れ,鄒応龍が厳嵩父子を弾劾するに及んで,世蕃は処刑され,彼は身分を奪われ家財は没収された。このとき没収された金銀財宝の莫大なことは世人を驚かせた。

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世界大百科事典(旧版)内の厳嵩の言及

【嘉靖帝】より

…とくに1541年(嘉靖20)以後,帝は西苑の万寿宮に移り,大臣を接見することもなく,道教に狂信して政務をまったくかえりみなかった。ために,大学士厳嵩は独断の政治を行い,宦官の専横を許し,国勢は次第に衰えた。さらに北虜南倭の被害が重なった。…

※「厳嵩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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