日本大百科全書(ニッポニカ) 「嘉靖帝」の意味・わかりやすい解説
嘉靖帝
かせいてい
(1507―1566)
中国、明(みん)朝第12代皇帝(在位1521~1566)。姓名は朱厚(しゅこうそう)。廟号(びょうごう)は世宗、諡(おくりな)は粛(しゅく)皇帝。年号にちなみ嘉靖帝とよばれる。第10代弘治(こうち)帝の弟興献王の長子であったが、いとこにあたる第11代正徳帝に嗣子(しし)がなかったため、15歳のとき急遽(きゅうきょ)皇帝位についた。即位直後、伯父にあたる弘治帝を皇考(皇帝の父)と称すべきか、実父の興献王を皇考と称すべきかで朝廷に「大礼の儀」といわれる大議論がおこり、嘉靖帝は後者の見解を持して譲らず、最終的には帝が反対派の宰相楊廷和(ようていわ)らを辞職させて決着をつけた。即位のごく初期には正徳帝治下で横暴を極めた宦官(かんがん)を処刑、追放するなど前代の弊政の改革を志した帝も、2年半の「大礼の儀」のなかで国政の要点を見失い、しだいに道教に熱中して土木工事や祈祷(きとう)に国費を乱費し、1542年からは自己にへつらう権臣厳嵩(げんすう)を宰相に登用してその専横をほしいままにさせた。他方、帝の治世は「北虜南倭(ほくりょなんわ)」と称されるように、北方ではモンゴルの韃靼(だったん)部アルタン・ハンが一時首都北京(ペキン)を包囲するほどの勢いで侵攻を激化させ、南方では江蘇(こうそ)・浙江(せっこう)の沿岸地域を中心に、1520年ごろから、中国人を主体とし一部日本人を交えた武装集団倭寇(わこう)の密貿易と略奪が繰り返されるなど、外患も顕著となった。「北虜南倭」の動きはいずれも貿易の拡大を求めたものであり、これを招いたのが正徳帝以来の商品生産、貨幣経済の発達であった。また、この経済変動の一環として大土地所有が伸張し、とくに官僚の大地主化が進んで、彼らによる租税、徭役(ようえき)の納入忌避がしだいに国家財政を悪化させた。他方、経済の発展を実際に担った都市や農村の民衆も、従来の社会秩序に従わなくなっていった。嘉靖帝が史家によって「しょせん並の君主」と評される背景には、明前半期の方法では対応しきれない社会そのものの変化があったのである。
[森 正夫]