日本大百科全書(ニッポニカ) 「参予会議」の意味・わかりやすい解説
参予会議
さんよかいぎ
幕末、京都で任命された朝議参予による会議。1863年(文久3)12月晦日(みそか)、京都において、将軍後見職徳川慶喜(よしのぶ)、京都守護職松平容保(かたもり)と、松平慶永(よしなが)、山内豊信(とよしげ)、伊達宗城(だてむねなり)の5名が朝議参予を命ぜられ、翌64年(元治1)正月13日島津久光(ひさみつ)も加えられた。「文久(ぶんきゅう)三年八月十八日の政変」によって、尊攘(そんじょう)激派の公卿(くぎょう)や長州藩兵が京都を追われたのち、かねてからの、雄藩連合による公武合体の主唱者島津久光(薩摩(さつま)藩主茂久(もちひさ)生父)は、京都に入り、天皇のもとに雄藩の藩主、前藩主など実力者を集め、幕政に指示を与える公武合体政権の樹立のために動いた。その結果が、年末の朝議参予の任命であった。先に5月の攘夷(じょうい)断行のために上京していったん帰府した将軍徳川家茂(いえもち)も、また大坂経由で、64年正月15日に着京、21日右大臣に任ぜられた。任命以前から京都にあって、久光や慶永の宿舎でたびたび会合していた参予の面々は、64年正月から2月にかけて、御所や二条城で数日ごとに会合し、大小の国政問題を議論した。しかし、とくに京都を追われた三条実美(さねとみ)らを受け入れている長州藩の処分や、横浜鎖港の可否をめぐり、朝廷の公卿たちや、将軍家茂、政事総裁職松平直克(なおかつ)らも含めての、意見が対立した。松平慶永は2月19日にいったん辞意を表明し、山内豊信は2月20日辞職して帰国した。久光の横浜鎖港反対論などが強く出されたこともあったが、国政の実質的な主導権をめぐって、家茂や慶喜と、慶永、久光、宗城らの対立が決定的となり、3月9日残る5名全員が朝議参予を辞職し、事あるときに参内することで天皇の了承を得たため解体した。
[河内八郎]