幕末期の越前国(えちぜんのくに)福井藩主、幕府の政事総裁。元服のときにつけた雅号春嶽(しゅんがく)が通称となる。田安(たやす)家徳川斉匡(とくがわなりまさ)の八男で、1838年(天保9)11歳のとき、越前家を継ぎ、第16代藩主となった。以後20年間のうちに、中根雪江(なかねせっこう)(靭負(ゆきえ))、鈴木主税(すずきちから)らを登用し、藩政の刷新に努め、西洋砲術や銃隊訓練など軍事力の強化、藩校明道館の設立と併設の洋書習学所、種痘(しゅとう)の導入など洋学の採用も推進した。その間、1853年(嘉永6)ペリー来航に際して、海防の強化を説き、江戸湾など沿岸警備の具体策の実現を、幕府に対して積極的に働きかけた。1857年(安政4)、熊本藩士横井小楠(よこいしょうなん)を登用し、開国通商の是認に傾くとともに、13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ)の継嗣(けいし)に一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推すなど、島津斉彬(しまづなりあきら)(薩摩(さつま)藩)、伊達宗城(だてむねなり)(宇和島藩)、山内容堂(やまうちようどう)(土佐藩)らとともに、幕府主流派と対立した。1858年、大老井伊直弼(いいなおすけ)による日米修好通商条約調印と、紀伊家の徳川慶福(とくがわよしとみ)(のち14代将軍家茂(いえもち))の継嗣決定に強く抗議したため、7月、ともに動いた徳川斉昭(とくがわなりあき)はじめ、先の大名たちとともに謹慎(きんしん)処分を受け、退隠、藩主の地位を同族の茂昭(もちあき)に譲った。
1860年(万延1)井伊直弼の暗殺後、謹慎を解かれ、さらに2年後(文久2)政界に復帰、その7月には慶喜の将軍後見職就任に続いて、政事総裁職に任ぜられて、幕政の指導的地位にたった。復権後の彼の立場は、公武合体の推進にあったが、幕府の中枢にあるとともに、1864年(元治1)には一時京都守護職に就任、朝議参予(さんよ)ともなって朝廷からも大きな信頼を受けた。1866年(慶応2)12月、慶喜が将軍職に就くが、慶永はその施政に大きな影響力をもち、一方、京都に集まった宗城、容堂、島津久光(しまづひさみつ)(斉彬異母弟)の3名とともに、参予会議の「四侯」として、公武合体による国政改革に努めた。長州攻撃の収拾や、兵庫開港の容認とその「勅許」の獲得など、年来の懸案を将軍慶喜が処理したことについては、慶永の建言・助言が大きな役割を果たしていた。大政奉還・王政復古で、新政府の議定(ぎじょう)職の一人に任命されたが、戊辰(ぼしん)内乱から、慶喜への厳しい処分が進む政界の方向に反発、1869年(明治2)民部卿(みんぶきょう)、続いて大蔵卿兼務を最後に、1870年7月、42歳でいっさいの公職を退いた。以後、自らの体験を歴史的に回顧した『逸事史補』など多くの著述をまとめた。明治23年6月、62歳で病没した。
[河内八郎]
『中根雪江著『奉答紀事』(1980・東京大学出版会)』▽『中根雪江著『昨夢紀事』4冊、『再夢紀事』、『続再夢紀事』6冊(1921~22・日本史籍協会)』▽『川端太平著『松平春嶽』(1967・吉川弘文館)』▽『『松平春嶽全集』全4巻(1939~42、第4巻のみ1973・同全集刊行会)』
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幕末の福井藩主。号は春岳(嶽)。三卿の田安家に生まれ,1838年(天保9)将軍徳川家慶(いえよし)の命により相続。徳川斉昭(なりあき)の影響のもとに財政整理,西洋式兵制採用,銃砲・火薬製造,造船事業などに努力,種痘法をも積極的に採用し,藩政に治績をあげた。ペリー来航後,斉昭と親しく親戚でもあった老中阿部正弘に盛んに意見上申し,国政参加への意欲をみせた。将軍家定が凡庸多病のため,外圧に対処し国内体制を固めるには英明な将軍擁立を第一とする見解に立って,島津斉彬(なりあきら),山内豊信(とよしげ)(容堂),伊達宗城(むねなり)らと連絡し,橋本左内の補佐のもと一橋派運動に努力した(将軍継嗣問題)。しかし紀州慶福(家茂)を推す大老井伊直弼のため1858年(安政5)隠居謹慎の処分をうけ,左内も安政の大獄で刑死した。62年(文久2)将軍後見職一橋慶喜とともに政事総裁職(大老相当)として政界に復帰,横井小楠(しようなん)の助言をうけながら幕政改革,公武合体運動に従事した。しかし朝廷・外様雄藩勢力の上昇により幕府独力による政局指導が不可能となっていたため,しばしば苦境に陥り辞職,帰国を繰り返した。第2次長州征伐に際しては中止を主張,鳥羽・伏見の戦が起こると宗家徳川家存続のため必死に周旋,目的を達した。明治政権では議定(ぎじよう),内国事務総督,民部卿,大蔵卿を歴任したが実権はともなわず,大学別当兼侍読を最後に退官,麝香間(じやこうのま)祗候となり明治天皇の信任をうけた。
執筆者:山口 宗之
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(高木不二)
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1828.9.2~90.6.2
幕末期の大名。越前国福井藩主。父は田安斉匡(なりまさ)。越前守。号は春嶽。福井藩主松平斉善(なりさわ)の没後養子となり,1838年(天保9)遺領相続。徳川斉昭(なりあき)・島津斉彬(なりあきら)・伊達宗城(むねなり)らと海外・政治情報を頻繁に交換。将軍継嗣問題では一橋慶喜(よしのぶ)を推すが,58年(安政5)井伊直弼(なおすけ)の大老就任後,不時登城を理由に隠居・謹慎を命じられた。62年(文久2)政界復帰。同年政事総裁職に就任,将軍後見職一橋慶喜とともに中根雪江・横井小楠らを用いて幕政改革に着手。参勤交代の緩和を断行。公武合体を主張したが挫折。維新後は議定・内国事務総督・民部卿・大蔵卿などを歴任。70年(明治3)公職を退き著述に専念。
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…越前国(福井県)足羽郡福井に藩庁を置いた親藩。1600年(慶長5)関ヶ原の戦後,徳川家康の次男結城秀康が越前一国68万石を与えられて成立した。秀康は下総国結城から商工人を伴って入国しているが,城下町の地子を免除し,税制や交通を整備するなど領国経営の基礎を固めた。長男松平忠直も久世騒動といわれる御家騒動を切り抜け,鳥羽野を開拓するなどの治績をあげたが,23年(元和9)乱行を理由に豊後国に配流された。ただし伝えられる忠直の乱行は多く潤色で,すべてが史実とは認められない。…
※「松平慶永」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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