双十協定(読み)そうじゅうきょうてい

世界大百科事典(旧版)内の双十協定の言及

【重慶交渉】より

…日本降伏の直後,中国共産党と国民政府が行ったトップ交渉。毛沢東と蔣介石をそれぞれの代表として,1945年8月29日から10月10日まで臨時首都の重慶で行われ,内戦の回避,国共合作による新中国の建設等を互いに認めあった双十協定が結ばれた。蔣介石が中共攻撃の準備を進めつつ,内戦回避の会談を呼びかけたところ,予想に反して毛沢東が受諾,延安から飛来したため,内戦の責任を中共に転嫁しようとしたおもわくははずれ,逆に中共に政治的主導権を与える結果となった。…

【中華民国】より

…全国土がほとんど焼土と化した未曾有の大戦禍をこうむったあとだったから,人々の和平,統一への願望は強烈で,いかなる勢力もそれを無視することはできなかった。くわえて国民党側の主力軍は奥地に配置されているという軍事的制約もあって,戦勝後ただちに国共両党間で和平交渉(重慶交渉)がおこなわれ,平和団結を確認する協定が結ばれた(双十協定)。46年1月には,国共両党に民主同盟などの諸党派を加えた政治協商会議が重慶で開催され,国民大会開催の方針も打ち出された。…

【中国国民党】より

…蔣介石は,45年8月14日以後,3回にわたって毛沢東に打電し,平和交渉をよびかけ,内戦の準備をしつつ,交渉によって共産党との関係を有利に導こうとした。こうして開かれた〈重慶交渉〉とその結果である〈双十協定〉は,内戦を避ける保障にはならなかった。反内戦・反飢餓を訴える学生や都市住民の運動が高まる中で,46年1月,アメリカ大統領の特使マーシャルの調停でさらに〈停戦協定〉が結ばれた。…

※「双十協定」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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