第2次世界大戦(読み)だいにじせかいたいせん(英語表記)The Second World War

改訂新版 世界大百科事典 「第2次世界大戦」の意味・わかりやすい解説

第2次世界大戦 (だいにじせかいたいせん)
The Second World War

通常,1939年9月1日ドイツのポーランド侵攻から45年9月2日の日本の降伏文書調印まで続けられた戦争は〈第2次世界大戦〉といわれる。この期間ドイツ,イタリア,日本の枢軸国側とイギリス,フランス,アメリカ,ソ連,中国などの連合国側とが,大西洋,ヨーロッパ,北アフリカ,そして太平洋,東アジアを主たる戦場として巨大な規模の戦争を展開した。この戦争は,(1)当時の大国のほとんどが戦争に参加したこと,(2)また当時の先進国の領土が戦場となったこと,(3)このため戦争により国際秩序が根底的に変化したことから,まさに〈世界大戦〉といえるものであった。

 しかし,この戦争は次のような独特な性格ももっていた。第1に,この戦争は基本的に,ドイツのナチズム,イタリアのファシズム,日本の軍国主義が行った対外膨張とそれに対する抵抗の戦いであったことである。対外膨張とその阻止のために,正規の軍事力が使われたほか,征服された地域では支配者およびその協力者に対する抵抗運動も展開された。この特色と関連するのが,1939年9月以前にすでに対外侵略は始まっており,〈戦争〉と〈平和〉との境はすでに不分明になっていたことである。第2は,この〈戦争〉は,〈全体戦争〉といわれ,戦争にヒト,モノのすべてが動員されたことである。さらに科学技術も動員され兵器開発が急速に進んでいった。〈戦略爆撃〉の名のもとに遂行された長距離爆撃機による〈空襲〉は,空軍力の発達によるものであり,技術開発がもたらした戦争の新しい様相であった。そしてそれは〈核爆弾〉の開発となり,広島,長崎の悲劇となった。なお,太平洋,東アジアを主たる戦場とした戦争については,〈太平洋戦争〉の項を参照されたい。

ここではまず,この戦争に参加した主要国の政治,とくに外交政策の基本的な特色を指摘したい。

第2次世界大戦は,1933年1月政権を獲得したナチズムが引き起こした戦争であった。ヒトラーは明確な外交構想をもってそれを段階的に実現していった。ヒトラーは政権を獲得するまえに,すでに《わが闘争》(1925-27)や1928年に書かれた《第2の書》(未公表)で示したように,二つの大構想を抱いていた。その際,この構想を実現する前提として,ベルサイユ条約の廃棄と1914年時の国境の回復を考えていた。その後,第1の構想を実現することになっていた。すなわちロシアと東欧を征服し,その地に新しい生存地域を獲得し,その徹底的ゲルマン化をはかり,その地域を〈生存圏〉とする大陸帝国を築くというものである。そしてその目標を実現するのは戦争であり,その際フランスは殲滅(せんめつ)され,イギリスは世界帝国というその地位が脅かされないかぎり大陸の情勢を静観するとされた。ヒトラーの構想はこれにとどまるものではなかった。〈世界支配〉といわれる構想を抱き,アフリカに植民地を保持し,大西洋に巨大な艦隊を有する〈世界強国〉を築こうとしていた。それは大陸を制覇した後,残されたアメリカ,イギリス,日本という三つの〈世界強国〉と並ぶものでなければならず,後の世代のこととはいえ,世界支配をめぐる決戦に耐える帝国でなければならなかった。〈ドイツ民族のチュートン帝国〉はアメリカ世界帝国との最終決戦に備え,それを打ち破らねばならなかったのである。

 しかし〈大陸帝国〉から〈世界帝国〉へという対外膨張構想をもつヒトラーは,その帝国の支配原理を人種主義に求めていた。とくに東方に住むスラブ人は劣等人種とされ,労働力を提供する以外の何物でもなかった。そしてこの人種政策は戦時中ポーランドなどで過酷なまでに遂行されていった。さらにユダヤ人はヒトラーにとって健康な肉体をむしばむ病原体にほかならず,〈絶滅〉の対象でしかなかった。そのため,戦時中〈最終的解決〉の名のもとにユダヤ人は虐殺されていった。彼にとって帝国形成のための対外膨張とは,中核民族に経済的・政治的・軍事的利益をもたらす空間の獲得という意味ばかりでなく,異人種を排除した浄化された空間を構築することをも意味し,深く人種主義と結びついていた。

 ヒトラーの国際政治に対する考え方は,社会ダーウィニズムに強く影響されていた。〈政治こそが生存競争の指導者であり,それが有効か否かが民族の生と死の境を決定するのである〉と。そしてこの政治の中核に位置づけられたのが暴力であった。国内支配の基礎にテロル支配がおかれたように,外交目標を達成する基礎とされたのは軍事力であった。それと同時にヒトラーは状況を利用する術を心得ていた。とくに奇襲戦術とプロパガンダを巧みに利用した。天性のデマゴーグといわれる彼は,そのほとんどの対外行動を相手の虚をつく奇襲でもって行い,その後,本来の目標を覆い隠す演説などのプロパガンダで相手を欺いたのである。このような構想を基礎として進められた彼の対外行動に,主要国はどのように対応しようとしたのであろうか。

イギリスは,開戦にいたるまで〈宥和(ゆうわ)政策〉をとり,ドイツの侵略的行動を許していった。その後1940年5月チャーチルのもとに〈挙国一致政府〉が成立し,ドイツの攻撃に抵抗し反撃したのである。この時期イギリスは,経済の弱体化とイギリス帝国の維持という二つの構造的条件のなかで活動せざるをえなかった。経済の弱体化は,戦前においては軍備増強への抵抗となり,戦争はそれにさらに拍車をかけ総資産の1/4を失い,また最大の対外債務国となった。帝国の維持は,植民地での民族主義の高まりもあり,また帝国の防衛も難しくなったこともあり,次の戦争は帝国の解体をもたらすという不安を強くした。戦争に入り,参戦に反対する意見もあったものの,侵略の脅威とデモクラシーの防衛から自治領やインドなどの植民地はイギリスと一体感をもち兵士を送り,帝国は維持された。しかし長期的には帝国の解体は動かし難い方向となっていた。だがイギリスはこの戦争を戦いぬいたのである。その一つはチャーチルの指導力であり,また,イギリスは大国であり,その使命を果たさねばならないという国民に広く抱かれた感情であった。

フランスは,第1次世界大戦において最大の被害をうけたこともあって,外交の最大の関心はドイツに対する安全保障にあった。しかしフランスも,イギリスと同様〈宥和政策〉の道をたどった。その原因の一つは,経済の停滞であり金融危機であった。この危機をのりきるためイギリスへの依存が強まり,外交政策の自由度も狭まっていった。第2に,1930年代に入り国内の左右対立が激化し,36年人民戦線政府の成立によりその溝はさらに深まり,有効な外交政策を展開するための基盤は失われていった。そして第3に,この外交政策でも対独強硬派と宥和派の路線対立がみられ,その際,宥和派にとって脅威は国内体制の転覆であった。40年6月フランスは降伏し,国土の1/3を占領され,南部にペタンを首班とするビシー体制が樹立された。フランスの崩壊である。対独協力の姿勢をとり権威主義的な政策を進めたこの政府に対し,ド・ゴールは自由フランスを宣言し国外で活動を続け,〈戦うフランス〉の象徴となった。その一方,占領下のフランスでもさまざまな抵抗運動がなされ,独立の確保のための戦いが展開された。

1922年ファシスト政権の成立以後,ムッソリーニはイタリアを国際政治的に他のヨーロッパ大国と同等の地位にまで高め,また帝国主義の時代にかならずしも成功しなかった地中海・北アフリカへの進出をもくろんでいた。そして30年代に入り,ナチズムの台頭とともに,イタリアは大国として行動する機会を見いだし,最初はナチス・ドイツの敵対者(オーストリアをめぐる対立)として,後にはドイツとイギリス,フランスとの仲介者(ミュンヘン会談の提案)として発言力の強化に努めた。その一方,国内の基盤の弱さを補てんするため外交的勝利を必要とし,国際政治上自己に有利な機会を利用して,エチオピア戦争,スペイン内戦でのフランコ側への支援,アルバニア侵略を行った。ただし,ヨーロッパの他の大国との戦争には消極的であり,39年夏ヒトラーがイタリアに参戦を要請してきたときも,戦争の準備が不十分であるとして中立の態度をとった。そしてヒトラーの勝利をみて,再び冒険主義的な方針に賭け,40年6月ドイツ側に立って参戦した。しかし華々しい勝利をおさめることもできず国内の基盤は解体をみせ,連合国軍の北アフリカへの進攻とともに,ムッソリーニの政治指導への不満が強まり,43年7月ファシスト大評議会は彼を追放した。そしてイタリアは同年9月降伏した。しかしイタリアは直ちにドイツに占領され,ムッソリーニはサロ共和国を北部に樹立したが,ドイツの傀儡政権でしかなかった。ドイツ軍と連合国軍・イタリアの抵抗運動との戦闘はつづき,終りをみたのは45年4月のことであった。

ソ連は,1941年6月22日ドイツから攻撃をうけ,参戦した。30年代のソ連の外交政策については研究上明らかではない点も多いが,次のような基本的な流れは指摘できよう。20年代の後半から,ソ連は〈五ヵ年計画〉や〈農業集団化〉に取り組み,その成果をみて大恐慌にあえぐ資本主義諸国に対して優位に立ったと考え,その一方でファシズムを資本主義の崩壊の前兆ととらえ,長くは続かないものとし,主要な敵を社会民主主義としていた(社会ファシズム)。その後ナチズムの定着とともに,ドイツの脅威を強く感じはじめ,1934年9月には国際連盟に加入して〈集団的安全保障〉を強調し,35年5月にはフランスとチェコスロバキアとの間に相互援助条約を締結,同年夏のコミンテルン第7回大会では〈人民戦線戦術〉を採択して西側への接近をはかった。そして36年スペインで内戦が勃発すると,共和国側を支援した。しかしこのころ〈粛清〉が進み,病理的ともいえる体制の〈強化〉がなされた。接近の試みにもかかわらず,38年9月のミュンヘン会談のように,西側はソ連を排除する姿勢を示し,ソ連はイギリス,フランスがドイツとソ連を戦わせようとしているのではないかという不安を強く抱きはじめ,ドイツへの接近が考えられ,39年8月23日不可侵条約が締結された。この条約は,ソ連の安全保障への強い関心という点からは〈理解〉できるものの,いままで不俱戴天の敵として厳しく対立していたこの2国が突如として協力関係に入ったことは,国際共産主義運動や西側のソ連イメージに深い混乱をもたらすことになった。さらにソ連は,ドイツのポーランドへの電撃的な侵攻をみて脅威を深め,ソ連の西部国境の拡大にのりだし,9月中旬にポーランドへ侵攻し(9月28日ポーランド分割に関する独ソ協定),9月から10月にかけてバルト三国に圧力をかけて相互援助条約の名のもとに駐留権を獲得した。さらに11月には同様な要求を拒否したフィンランドを攻撃し,激しい抵抗をうけた後,翌40年3月休戦協定を結び領土の拡大を行い,加えて6月にはルーマニアからベッサラビアを割譲させた。41年6月22日ドイツ軍は国境を突破しソ連領内に侵攻した。ドイツのソ連攻撃を示すいくつかの事実が明らかになっていたにもかかわらず,ソ連はほとんど無警戒であった。また兵器や将兵の質も劣ったためソ連軍は敗北を重ね,その秋にはモスクワ近郊まで攻めこまれた。しかしスターリンはモスクワにとどまり対決の決意を示すと同時に,国民のナショナリズムに訴え本格的な戦争指導を開始した。国民はドイツによる虐殺もあり,この〈大祖国防衛戦争〉に取り組み,42年には生産も回復し,スターリングラード(現,ボルゴグラード)での勝利以後反撃に移ることになった。ヨーロッパ・ロシアの大半を約3年間戦場としたこの戦争は,ソ連に膨大な被害をもたらした。死者は約1600万人,1700の都市と町,7万の村が破壊されたといわれている。また戦時下の暮しも最も過酷であったといわれる。

アメリカは,1941年12月8日(日本時間)日本の真珠湾攻撃をうけ,参戦した。そして12月11日ドイツ,イタリアの宣戦をうけて,ヨーロッパ方面にも参戦した。アメリカの外交政策は,1930年代のかなりの後まで〈孤立主義〉に支配されていたといえる。とくに35年8月には中立法が制定され,交戦国への武器等の輸出が禁止され,それ以後も禁止事項が拡大されていった。F.ローズベルト自身は,ナチス・ドイツや日本の対外膨張をみてより積極的な施策を考えていたが,この〈孤立主義〉の世論のまえに慎重にならざるをえなかった。39年,戦争の勃発とともにアメリカはしだいにイギリス,フランス支援の姿勢をとっていく。中立を宣言しながらも武器援助にのりだしていくのである。ことに40年ドイツが勝利を重ね,日本の動きも活発になるに従い,これらの国々への姿勢も厳しくなっていった。41年1月ローズベルトは年頭教書において,言論・表現の自由,神を敬う自由,欠乏からの自由,恐怖からの自由という〈四つの自由〉を〈戦うに値する事物〉と説くと同時に,デモクラシーの兵器厰となることを宣言した。3月武器援助を可能とする武器貸与法が成立し,イギリスとの協力関係も軍事作戦の面で密接になっていった。8月にはイギリス首相チャーチルとローズベルトとの会談がもたれ,〈大西洋憲章〉が発表され,この2国の協力が明らかにされた。アメリカは事実上参戦一歩手前まできていたといえる。しかしヨーロッパと太平洋の両面での戦争を回避しようとする判断もあり,41年いっぱい日米間で交渉が続けられたが成功せず,12月日本の真珠湾攻撃をうけ,戦争に加わった。この奇襲攻撃は,アメリカの世論を変え,挙国一致の状況ができあがったといわれる。

 この時から約4年間,アメリカはヨーロッパと太平洋において戦闘に従事し,また膨大な軍需物資を生産し,それを他の連合国にも引き渡した。アメリカにとってこの戦争は,ドイツのナチズムと日本の軍国主義に対する〈正義〉の戦いであった。このような戦争に対する態度は,戦争の遂行,そして戦後の構想にも大きな影響を与えることになった。枢軸国に対する無条件降伏の方針であり,ドイツに対する戦後処理の初期の過酷な構想であり,その一方で多大な犠牲を払っているソ連への共感であり,ソ連との協調を前提とした戦後世界の構想であった。しかしローズベルト自身は,このようなアメリカの世論のまえでより現実的な対応をとり,戦後世界の対立の芽に気づいていた。

1939年9月に勃発した第2次世界大戦は,疑いもなくヒトラーが引き起こした戦争であった。そこにいたる過程は大きく次の二つの時期に分けられる。まず最初の第1期は,ヒトラーが政権を獲得した1933年1月からドイツによってラインラント進駐がなされ,スペインで内戦が起こり,フランスで人民戦線政府が樹立された36年までであり,ドイツの軍事大国化と他の大国によるドイツの牽制の挫折によって特色づけられる。続く第2期は,この1936年から開戦までの時期であり,ドイツの一連の侵略行為と他の国による宥和によって特色づけられる。

1933年1月政権を獲得したヒトラーにとって最大の課題は,その体制を定着させることであった。それはナチ党による一党独裁体制の完成であり,ドイツの政治社会全体をナチ党の,またその指導者であるヒトラーの指導に服させることであった。しかしその過程は決して平たんではなく,強固な基盤をもつ政治集団をどのように扱うかが大きな問題となっていた。外交政策の領域でいえば,外務省や国防軍を掌握できるかどうかが問題となっていた。そして国内の支配基盤がいまだ強固になっていないため,ナチ党への支持を調達するためにも外交上の成果を必要としていた。このような体制の基盤強化と外交上の勝利とが密接に関係するかたちで外交政策が展開されていった。

 ヒトラーが実行した第1の政策は軍事力の強化であり,これは国防軍も支持するところであった。まずヒトラーは,1932年2月より始まっていたジュネーブ軍縮会議(同時に国際連盟)から33年10月14日脱退し,大演説で意図を偽装するとともに国会を解散して選挙で信任を問い,11月12日には国民投票で圧倒的な支持をうけた。そして翌34年2月W.vonフリッチュが陸軍最高司令官に任命された以後,軍備増強のテンポは速められていった。そして当初の計画の平時21師団(約30万)が35年初頭にはほぼ達成されるとさらに増強を試み,35年3月16日には徴兵制度の復活と平時36師団(約50万)の保有を宣言した。陸軍ばかりではなく,海・空の兵力も増強され,とりわけゲーリングのもとで空軍力は,1933年の保有機8機から35年9月には約4000機に増強されていた。この増強が34年ごろから各国,ことにイギリスに,ドイツ空軍の優位を感じさせていくことになる。

 ヒトラーの第2の政策は,ベルサイユ条約とそれを支える国際政治構造(ベルサイユ体制)を修正することであった。先に述べた軍事力の増強は,まさにベルサイユ条約の軍備制限条項を無視するものにほかならなかった。まずヒトラーは,隣国オーストリアの併合を目標とした。オーストリアのナチ党を利用して政府を転覆し,ドイツに併合しようとしたのである。オーストリアには,第1次世界大戦後の講和条約で禁じられたものの,ドイツとの〈併合〉を望む声が強く存在していた。そして1932年ドルフスが首相となり〈教権ファシズム〉といわれる独裁体制を築こうとしていたが,社会民主党とナチ党から強い反対をうけ,いまだ不安定の状態にあった。この状況を利用してまたオーストリア・ナチ党を資金や武器や宣伝で支援して,ヒトラーはドルフス体制を打倒しようとしたのである。34年7月25日オーストリア・ナチ党は武装蜂起したが,それはドルフスを殺害しただけで失敗に終わった。また,ドイツが介入しないようにドルフスを支援していたムッソリーニは,イタリアとオーストリアの国境に兵力を結集し牽制していた。その一方,ザール地方は,ベルサイユ条約で国際連盟の管理下におかれ,15年後住民投票で帰属が決定されることになっていた。そして15年目の35年1月13日住民投票がなされ,約90%の票を獲得してドイツへの帰属がなされた。

 このようなベルサイユ条約を直接修正しようとする試みと併せて,それを維持する勢力を分断しようとする試みもなされた。1934年1月26日ドイツとポーランドとの間に不可侵条約が締結された。ポーランドは,ドイツとの間に国境問題を抱え,しかもフランスの同盟国であることもあり,それまで良好な関係にあることはなかった。このポーランドへの接近は,ヒトラーと国防軍指導者がドイツの軍備増強にフランスとポーランドが予防戦争を行うのではないかと警戒したこともあるが,なによりもフランスを中心とするドイツ包囲網を分断することが目標であった。またイギリスはヒトラーにとって,その構想を実現するためには敵としてはならない国であった。首相に就任してからヒトラーは,機会をみてはイギリスにさまざまなかたちで接近を試みていた。その手掛りとして提案したのが,一つは海軍に関する軍備制限であり,もう一つは植民地問題であった。34年の半ばごろから,ヒトラーは海軍の要求を抑えるかたちでドイツの海軍力をイギリスの1/3とする条約の締結を考え,イギリスに打診を始め,その結果35年6月18日英独海軍協定が締結された。おりしもドイツの孤立が顕著になっていた時であったがゆえに,大きな意味をもつことになった。

 このようにドイツは確実に軍事大国の道を歩んでいた。しかしその際忘れてはならないことは,ヒトラーは,その最初の外交行動が1933年5月の〈平和演説〉であったことが象徴しているように,大きな行動を起こす場合必ずといってよいほどに大演説を行い,本来の意図を覆い隠し〈平和〉を強調していたことである。たとえばポーランド接近も,従来の関係を改善したものとして,平和に役立つものとして他国から評価されていたのである。

 ドイツがこのように軍事大国化しているとき,その他の国々は従来の国際政治の方法で対応できると考え,そのように行動していた。つまり,ドイツはベルサイユ条約で本来の国際政治上の地位を奪われた不自然な状態におかれており,その要求を認めることによってドイツは安定した地位に復帰し,従来の勢力均衡という国際政治の枠のなかで行動するであろうと考えていたのである。イギリスは,当時,経済の回復という重要課題にとらわれていたこともあるが,基本的には紛争の平和的解決(戦争の回避)とヨーロッパ大陸で巨大な国家が台頭しないかぎり大陸に干渉しないという,伝統的な外交政策をとっていた。そのためドイツの台頭に警戒心を抱きながらも,他の国々と共同で行動しえるかぎり,ドイツの行動を牽制しようとしていた。そして35年の英独海軍協定は,海軍軍縮を定めたワシントン条約が失効するという状況をうけて,ドイツの海軍力増強に枠をはめ,またドイツを国際社会に復帰させるという目標のもとに締結されたのであった。ドイツの台頭に最も警戒したのはフランスであった。先に述べたようにフランスの外交政策は,ドイツの脅威を共通の前提としながらも,ドイツとの交渉によって和解すべきという路線と,他国とドイツを包囲する同盟網を築くべきという路線に分かれていた。この時期,後者の路線に立って積極的な外交を展開したのが1934年2月外相に就任したJ.L.バルトゥーであった。彼はソ連と東欧各国に接近し相互援助条約を締結して,フランスの安全をより確かなものにしようとした。不幸にも彼は34年11月暗殺されたが,その後交渉は続けられ35年5月2日仏ソ相互援助条約が,5月16日ソ連・チェコスロバキア相互援助条約が締結された(しかし批准は1936年2月のことであった)。

イタリアは,ドイツの台頭に自国の発言権を強化する機会を見いだしていた。ドイツに対抗する勢力としてイタリアが重要視されはじめたのである。とくにドイツのオーストリアへの進出には警戒的であり,1934年の春以後オーストリアの独立の維持を目的としてドイツと敵対し,イギリス,フランスと共同行動をとっていた(1934年9月オーストリアの独立に関する共同声明)。そしてドイツを警戒するフランスとの関係も強化され,35年1月には仏伊ローマ協定が締結された。35年3月ドイツの再軍備宣言をうけて,フランス,イタリアにイギリスも加わり,35年4月11~14日北イタリアのストレーザで3国首脳会談が開かれ,ドイツに対する緩い連合(ストレーザ戦線)が形成されたのである。しかしこの連合はあくまで緩い連合であり,各国の対独政策が完全に一致したものではなかった。その2ヵ月後の6月には英独海軍協定が結ばれ,結束の弱さを明らかにしていた。

 1935年10月イタリアは本格的にエチオピアへの介入を始めた。前年の11月から12月にかけてイタリア領ソマリランドとエチオピアの間で起きた国境紛争をきっかけに局地的衝突が続き,国際連盟でも問題となっていたが,ムッソリーニはイギリス,フランスがイタリアに強硬な態度をとれないと判断して,エチオピアの保護国化を実現しようとしたのである。しかし同年10月国際連盟が経済制裁を決定し,12月イタリアに有利な内容をもつイギリス外相S.J.G.ホーアとフランス外相P.ラバルとの収拾案がイギリスの世論の反対でつぶれてしまうと,イタリアとイギリス,フランスとの間が悪化していくことになった。ここにドイツ対フランス,イタリア,イギリスという国際政治状況は流動化することになる。この間隙をねらうようにヒトラーは,国防軍が危俱するなかで,36年3月7日ラインラントに進駐したのである。ベルサイユ条約で非武装地帯とされ,さらにロカルノ条約でそれを保障されていたラインラントの武装化は,イギリスが積極的な対応をみせないと予想され,イタリアがドイツ接近をみせていたとしても,フランスの安全を大きく損なう露骨な違法行為であり,ヒトラーにとっても賭けであった。この行動に対して国際連盟・ロカルノ条約関係国会議が開かれたものの,有効な制裁措置はとられなかった。ラインラント進駐,そして,36年5月イタリアのエチオピア併合は,国際連盟・ベルサイユ条約・ロカルノ条約という,〈集団安全保障〉が無力であることを明らかにした。その一方,ドイツとイタリアは関係を強化し,36年7月イタリアのオーストリア放棄を内容とする独伊協定が締結され,10月には両国の協力をうたったベルリン・ローマ枢軸が宣言された。

このような国際政治の流動化は1936年6月フランスでのレオン・ブルムを首班とする人民戦線政府の成立,7月スペインでの内乱の発生によってさらに加速されることになった。フランスは,人民戦線政府の政策をめぐり国内の対立が激化し,またフラン危機も加わり,能動的な外交を展開しえなくなっていった。スペイン内戦は,共和国派とそれに反乱したフランコ派の戦いにとどまらなかった。この内乱は二重の意味で国際化したのである。一つは,イギリス,フランスが不干渉政策をとったものの,ソ連が共和派を支援し,またイタリアとドイツがフランコ派を支援するという国際介入がみられたことであり,ことにイタリアは国内の人気挽回と地中海への進出をめざして大量の軍隊・武器を送り,ドイツは反共主義と空軍力の誇示から介入していった。もう一つは,国際的にイデオロギー戦が展開されたことである。ファシズム対デモクラシーあるいはファシズム対共産主義の戦いとしてこの内乱は受け止められたのである。とくにこの時期,ドイツはフランスとスペインに人民戦線が成立したこともあり反共宣伝を活発化させ,36年11月に日本との間に防共協定を締結した(日独防共協定)。このような体制をめぐる対立が前面に出ていくなかで,国際政治の構造は,イギリス・フランス,ドイツ・イタリア,ソ連と分極化していくことになる。

 第2期は,このような分極化のなかで,ドイツの対外膨張が進められていくことになる。しかしながら,この時期の国際政治の配置状況を三者鼎立(ていりつ)と固定したものと考えることはできない。イギリスとフランスの間にも微妙な政策の違いは存在したし,ドイツとイタリアの間は,1937年11月イタリアが防共協定に加入したとはいえ,戦争に対する態度は大きく異なり,したがってイギリス,フランスに対する政策も異なっていた。またソ連はこの4ヵ国の国際関係から排除されていた。そしてフランスの地位の低下とイタリアの国力の限界が明らかになるにつれて,国際政治の機軸は英独関係となっていく。

ヒトラーは,この時期戦争の危険を冒しても東方への進出を決意しはじめた。1936年8月のヒトラーの〈四ヵ年計画に関する覚書〉,そして37年11月5日総統官邸で開かれた党および軍指導者との秘密会議におけるヒトラーの発言(これは〈ホスバッハ覚書〉として知られている)は,次のことを明らかにしている。第1に,ヒトラーは経済の行詰りを予想しはじめ,その打開のためにも東方に〈生存圏〉を獲得することを検討しはじめたことである。37年11月5日の会議ではオーストリアとチェコスロバキアへの進出計画を明らかにしている。第2は,そのためにも〈世界第一級の軍隊〉をできるだけ速く築くことが強調され,巨大な軍備増強が遂行された。しかし他の国々も軍備を拡大することにより43年以降の情勢はドイツに不利になると判断し,それまでに東方進出を実現すべきことを強調していた。このような対外膨張を実行すべく,1938年1月から2月にかけてこの計画に否定的であった国防軍および外務省首脳を更迭し,ヒトラーが新設された国防軍最高司令部の最高司令官となり,また外務大臣にはリッベントロープを任命し,軍部,外務省を完全に掌握した。第3に,進出を行うとき,当然,戦争という事態が予想されるわけであるが,ヒトラーは,そこでの戦争は他の大国を巻き込む全面戦争であってはならず,この事態を避けるために侵略に合法性を与える方法が考えられなければならないとし,また他国に介入の隙を与えない電撃的な行動が強調された。つまり,その国からの要請という口実を準備し,また〈第五列〉といわれる親ナチ党のグループを利用したのである。軍事的には機甲師団を主力部隊とする電撃戦の採用となる。

 イギリス,フランスはドイツの対外膨張を容認し,1939年9月の参戦まで有効な対応をとりえなかった。この政策は,〈宥和政策〉として大きな非難を浴びることになるが,この時期の政策は次のような前提をもっていた。一つは,ヒトラーが戦争の危険を冒してまでも対外侵略を実行しようとしていることに気づき,なによりも交渉によってそれを防ごうとしたことである。しかし問題は,交渉を優先する態度にあるのではなく,その交渉がほとんど一方的なドイツへの譲歩で終わったことである。そして第2に,その譲歩は,いま戦争を始めることは自国にとって不利であり,したがって自国の戦争準備が整うまでの時間を稼がなければならないということである。とくに戦争が自国の政治状況を不安定化し,現在の政治体制が存続できなくなるという不安は強かった。これがイギリスとフランスがソ連接近に消極的であった一つの理由となる。しかしながら〈宥和政策〉は構造的な背景をもっており,単に1937年5月イギリス首相に就任したA.N.チェンバレンや38年2月反宥和主義者のイーデン辞職ののち外相となったハリファクスなどのパーソナリティにのみ帰すことはできない。

 1936年夏ヒトラーは反共宣伝を激化し,イタリアとの和解を達成し,イギリスともリッベントロープを駐英大使に任命して接近をはかり,共産主義の〈防波堤〉であることを強調して東方進出の承認を得ようとしていた。しかしイギリスはすでにドイツの野望に気がつき始めており,この接近には消極的であり,交渉は37年夏ごろには成果のないまま打ち切られてしまった。この当時,イギリスはその軍事力の不足から潜在的敵国の増加を恐れ,イタリアをドイツから引き離そうとしていた。イタリアもドイツに全面的に従属することを望まず,そのためにもイギリスとの関係を改善することを望み,1936年12月31日西地中海の現状維持を約束する協定を結んだ(英伊紳士協定)。しかし37年に入りイタリアのスペイン内戦への干渉が強化されると,外相イーデンはイタリアへの宥和に反対の態度をとり,5月首相となりイタリアとの関係修復に積極的なチェンバレンと対立していくことになる。同年7月日中戦争の勃発によるイギリスの防衛負担の増大,11月6日の日独防共協定への加入,12月11日の国際連盟からの脱退というイタリアのドイツへの傾斜は,チェンバレンの対イタリア接近を強めイーデンとの溝をさらに広げ,38年2月下旬イーデンは外相を辞任した。そして4月16日にはイギリスとイタリアの間の懸案を処理したイースター(復活祭)協定が結ばれた。

ヒトラーはこのような展開をみて,状況は彼が期待した方向に進んでいないと判断しはじめた。しだいにイギリスの了解のないまま東方へ進出することを決意しはじめたのである。先述したように,1937年11月5日ヒトラーは東方進出の決意を明らかにしていた。

 まずオーストリアが目標とされた。1936年7月の独伊協定以降,ヒトラーは宣伝やナチ党支援を通じてオーストリアに揺さぶりをかけていたが,38年初頭,軍の再編によって起こった国内不安を解消すべくオーストリア進出の実行を決意した。2月12日オーストリア首相シュシュニックをヒトラーのベルヒテスガーデンの山荘に呼びつけ,実質的にオーストリアの従属化を意味する協定を強要し,オーストリア側がそれを3月13日の国民投票で決定するという抵抗の意思を示したとき,3月11日国民投票の中止とナチ党のザイス・インクワルトの首相就任を要求する最後通牒を発した。同日夜シュシュニックは辞任しザイス・インクワルトが首相となると,要請というかたちで12日ドイツ軍は国境を越え翌13日ウィーンに入り,ヒトラーはオーストリアの〈併合〉を宣言した。東南欧への入口ともいえるオーストリアへまでもの領土拡大は,ドイツに東方への確実な進出路を与えることになった。

ヒトラーの次の目標はチェコスロバキアであった。チェコスロバキアの内部では,ドイツ系住民が多く住むズデーテンで,ズデーテン・ドイツ党がヒトラーの第五列として自治要求を掲げ,チェコスロバキア政府を揺さぶっていた。オーストリアの〈併合〉を静観していたイギリスも,ドイツのチェコスロバキア侵攻には警戒をみせていた。1937年11月にイギリスのハリファクスがヒトラーを訪問し,平和を維持するためにドイツに植民地や東方進出に譲歩する提案を行っていたが,チェコスロバキアの解体を認めるものではなかった。それ以後もイギリスはズデーテン問題の平和的解決を申し入れてきたが,ヒトラーにとってこのような姿勢はイギリスがチェコスロバキアについて介入する意思を示しているものと映った。そのなかでヒトラーは,軍に作戦行動(〈緑色作戦〉)の検討を命じると同時にイタリアの支持を取り付けようとし,38年5月上旬イタリアを訪問し軍事同盟の締結を提案したが,イタリアはそこまでドイツに傾斜することには躊躇(ちゆうちよ)していた。他国の対応が必ずしも明らかでない状況のなかで,5月20~21日にかけてウィークエンド危機といわれる事件が発生した。ドイツ側の演習に対して,チェコスロバキアは部分動員をかけ,イギリス,フランスはドイツに厳重警告を発したのである。イギリス,フランスの介入をみてヒトラーは対英接近をあきらめ,5月下旬には10月1日を期限とする軍事作戦を命令した。9月上旬ズデーテン問題をきっかけとしてチェコスロバキアは危機に陥った。このなかで,チェコスロバキアに侵攻しようとするドイツと,交渉によって事態に収拾をはかろうとするイギリス,フランスとの緊迫した対応が展開された。ズデーテンをドイツに割譲することを取り決めたミュンヘン協定が締結された9月30日まで,ヨーロッパは戦争か平和かの瀬戸際に立たされたのである。

 この〈ミュンヘン危機〉あるいは〈9月危機〉といわれる国際危機は,ヒトラーの脅しのまえにイギリスとフランスがチェコスロバキアを犠牲にして平和を維持したものとして宥和政策の象徴とされているが,当時ヒトラーは敗北感を抱いていたことに注意する必要がある。ヒトラーはイギリス,フランス,イタリアの3国の介入によってチェコスロバキア解体という目標を妨害されたと感じたのである。10月に入りヒトラーは残部チェコスロバキアの解体を考えはじめた。一つは,残部チェコスロバキアにかけられた国際的な保障を切り崩すことであり,無力感にとらわれていたフランスに接近し,12月6日には独仏共同声明が出されイギリスを牽制した。二つめはチェコスロバキア内でのチェコとスロバキアの対立を利用することであり,1939年3月14日スロバキアを独立させ,同じ日チェコスロバキアの大統領ハーハを脅しボヘミア,モラビアを保護領とすることに同意させ,翌15日ドイツ軍はプラハに入り,ここにチェコスロバキアは解体された。

9月危機以降,イギリスは本格的に戦争準備を開始した。イギリスの防衛力強化をはかるとともに,敗北主義にとらわれドイツと接近しかねないフランスへも軍事援助の申入れがなされ,両軍の協力も強化された。その一方,ドイツもイギリス,フランスとの戦争を想定しはじめ海・空の軍事力増強がなされた。イタリアはこのなかにあって,戦争準備の遅れと国内の強い反戦感情から戦争を回避しながらも外交上の成果を達成しようとした。しかし,1938年秋のフランスへの強硬要求も失敗に終わり,39年3月のスペイン内戦の終結もイタリアの成果とはならず,なんらかの行動が必要となり,4月アルバニアに侵攻した。それに対してイギリスは直ちにギリシア,トルコへの軍事援助を申し入れ,イタリアは孤立化の恐れに直面し,ドイツに接近し,5月22日鋼鉄条約が締結され,ドイツとイタリアは軍事同盟関係に入った。しかし戦争準備が不十分であることは明確であり,8月ドイツから参戦要請がなされると,イタリアの指導者は参戦派と中立派に二分され,結局8月25日非参戦の通告を行った。

 チェコスロバキア解体後,焦点はポーランドに移された。1938年秋よりドイツはポーランドにダンチヒ(現,グダンスク)の返還等を要求しており,39年3月には一層の圧力をかけ,4月上旬に侵攻作戦(〈白色作戦〉)の準備を開始した。それに対してイギリスは,3月31日ポーランドの安全を保障する声明を発表した。イギリスとドイツはソ連接近を開始した。4月より徐々に軌道にのりはじめたソ連とイギリス,フランスの交渉は,双方が相手は自国だけをドイツと戦わせるのではないかと疑いながら進められたためほとんど進展をみせず,その一方,5月より開始された独ソ交渉も進展をみせなかったが,ソ連の安全保障の懸念から,またドイツの対伊関係の不調から8月に入り急速に進み,23日独ソ不可侵条約が締結された。おりしも8月上旬ダンチヒをめぐりドイツとポーランドとの関係は極度に悪化しており,8月23日ヒトラーは26日に予定した攻撃命令を出した。しかし,25日にイタリアから非参戦の回答とイギリス,ポーランド間の相互援助条約締結の知らせが届いたため,攻撃命令を取り消し,イギリスと再度交渉をもった。しかし,それも失敗したため,31日攻撃命令を下し,9月1日ドイツ軍はポーランドに侵攻した。第2次世界大戦の勃発である。

第2次世界大戦の戦局は,1939-41年のドイツ側の攻勢の時期,42-43年夏ごろまでの戦局の均衡した時期,43年夏から45年春までの連合国軍側の攻勢と勝利にいたる時期に分けられる。この戦争は戦闘の正面ばかりで戦われたのではなかった。補給路となった地中海や大西洋において海の戦いがなされ,敵の士気をくじき,また生産活動を損なわせる目的として戦略爆撃などの空の戦いもなされた。そしてヨーロッパ大陸にはナチスの支配が広がり,それに対する解放の試みがなされた。敵を打倒するために,それぞれの側は物的にも精神的にもそのすべてを動員することを試みた。この戦争に1億人が動員され,1500万人の将兵と3500万人の市民が死んだといわれている。

1939年9月1日早暁,ドイツ軍は機甲師団と空軍をもってポーランドに突入した。この戦闘は約2週間で終わり,9月中旬侵攻したソ連軍との間で28日分割協定が結ばれ,ポーランドは,政府は亡命し国土は分割され,占領された。44年後半に解放されるまで,ポーランドは,人種政策による過酷な弾圧下におかれ,死者の数は約600万人といわれ,人口比で最大の犠牲者を出すことになる。このポーランド戦の後,ドイツ軍は積極的戦闘行動に出なかったのに対し,ソ連はフィンランドとの戦争に活発な動きをみせた。この〈奇妙な戦争〉は,ヒトラーからみればイギリスと和解するために対仏戦を決意したものの天候の悪化のため順延を重ねた結果であり,イギリス,フランス側からみれば戦争準備のための時間稼ぎにほかならなかった。

 1940年4月,ドイツ軍はデンマーク,ノルウェーに侵攻した。イギリスがスウェーデンの鉄鉱石のドイツへの運搬経路を遮断すべく機雷作戦を実行しようとしたのに対しとられた措置であった。戦闘の大勢は緒戦で決した。しかしノルウェーの抵抗は強く,クビスリングらの親ナチス派が政権を樹立しえたのは42年春のことであった。このノルウェー戦の敗北をきっかけとしてイギリスのチェンバレンは辞任し,チャーチルが挙国一致政府を指導することになった。5月10日ドイツ軍は〈黄色作戦〉を開始し,オランダ,ベルギーに侵攻し右翼からの攻勢を開始した。ドイツ軍は英仏軍の意表をつき,15日ドイツ機甲師団は戦線中央のアルデンヌの丘からマジノ線を突破し,一気に海岸部まで進出して英仏軍の分断に成功した。この分断でフランス軍は混乱に陥り戦線は解体し,英仏軍は海岸部のダンケルクに追い詰められた。5月下旬から6月上旬にかけて撤退作戦がなされ,約34万の将兵がイギリスに輸送された。その後ドイツ軍は残りのフランス軍を撃破し,6月14日パリに入城,22日休戦協定が締結された。フランスの崩壊であり,占領を免れた南部にビシー政府が樹立され,ド・ゴールはフランスを脱出し,〈自由フランス〉を宣言した。このドイツの勝利に乗り遅れまいとしてイタリアも6月10日参戦し,大陸はファシズム側によって制覇された。ヒトラーにとって問題はイギリスであった。イギリスはこの事態をみて和解に応ずると期待していたが,チャーチルの下でイギリスの士気は衰えず,今後の対応には大きな決断が必要であった。7月下旬〈シー・ライオン作戦〉と呼ばれるイギリス上陸作戦が命令された。陸軍と海軍が戦術面で対立しているとき,ゲーリングは空軍による爆撃でイギリスの士気をくじくことができると主張し,8月中旬から約1ヵ月ドイツ空軍とイギリス本土を防衛するイギリス空軍との間で攻防戦が展開された。〈バトル・オブ・ブリテン〉と呼ばれる戦いであり,ドイツ軍は成果のないまま作戦を放棄した。その後ドイツとイギリスとの間では長期的な戦いがなされた。空軍による爆撃であり,イギリス空軍はドイツに対して戦略爆撃を開始した。また大西洋をめぐる戦いも本格化した。ドイツのUボートと補給路を確保するイギリス海軍との戦いであった。

 イギリスの抵抗をみて,ヒトラーはしだいに彼の本来の計画である対ソ戦を考えはじめた。イギリスの持久力をくじくためにも,大陸に残されたこの大国を叩くことが必要であった。1940年9月に締結された日独伊三国同盟はそのための一つの布石であり,この時期なされた独ソ間の交渉は成果のないまま終わった。その一方,イタリアは9月リビアからエジプトのイギリス軍に攻撃をかけ,北アフリカにも戦いが広がった。またアルバニアからギリシアにも攻撃をかけ,バルカンにも戦火は広がった。しかし,イタリアの攻撃は思わしくなく,いずれもイギリスの反抗をうけ,それをみてドイツは北アフリカにロンメル指揮下の機甲師団を送り,翌年4月には逆攻勢に成功し,また同じころバルカン半島に侵出し,ユーゴスラビア,ブルガリア,ギリシアにも侵出した。この戦線の拡大は対ソ戦との関係でヒトラーの意図が問題にされており,イタリアの支援と後方の確保であったという見解と,この時期ヒトラーは〈世界電撃戦〉ともいう北アフリカ・近東までの侵出を考え,その延長上に立つものという見解に分かれている。いずれにしろ独ソ戦のまえには,ドイツはヨーロッパのほとんど全土に支配を及ぼしていた。41年6月22日ドイツ軍はソ連を攻撃した。〈バルバロッサ作戦〉は,電撃戦として想定されロシアの冬が訪れるまえに決着をつけようとしていた。緒戦はヒトラーの期待どおりに進み,不意をつかれたソ連軍は退却を重ねた。7月中旬にはドイツ軍はスモレンスクにまで達し,北部では9月レニングラード近郊に達し,南部ではキエフが陥落,そして10月上旬にはモスクワ近郊に達した。しかし,モスクワ攻防戦は,シベリア方面からの援軍の到来もあり,またロシアの冬のためにドイツ軍の攻撃中止で終わった。

1941年12月太平洋戦争が勃発した。アメリカの参戦は,イギリスに安堵感を与え,ヒトラーには幻滅を与えていた。しかしヨーロッパの戦争の行方はいまだ定かではなかった。42年から43年夏にかけて戦局は一進一退をみせながらも連合国側に有利に進展していくことになった。空の戦いにおいては43年からアメリカも本格的に攻撃に加わり,ドイツ側への戦略爆撃を行った。しかし,イギリス,アメリカの戦術の違いもあり,期待された成果もあげえず,また損害も大きかった。連合国側が制空権を獲得するのは44年の中ごろのことであった。大西洋の戦いもドイツのUボート戦のため,1943年の初頭まで連合国側の損害は膨大であり,その後アメリカの建艦能力が損害を上回るようになり,また対潜水艦作戦も整備され,連合国側はしだいに制海権を回復していった。陸では北アフリカとロシアで戦闘が続いていた。北アフリカでは,ドイツ軍とイギリス軍がリビア・エジプト方面で一進一退の戦車戦を展開していたが,1942年10月エル・アラメインの戦でイギリス軍は勝利をおさめ,11月上旬には連合国軍はモロッコ・アルジェリア方面に上陸し,43年5月には北アフリカを制圧した。そして7月連合国軍はシチリアに上陸し,ムッソリーニの失脚とともにファシスト軍は解体し,9月イタリア上陸がなされた。しかし,このイタリア奪回作戦はドイツの強い抵抗をうけたこともあり,戦闘が終結したのは45年4月のことであった。

 独ソ戦にヒトラーは勝利の期待をかけ1942年春,再び攻勢にのりだした。その主力が向けられたのはロシア南部であり,油田地帯のカフカスであった。ヒトラーは,ソ連の補給地帯を分断しようとしたのである。主力部隊はスターリングラードに向けられ,9月から翌年の2月まで熾烈(しれつ)な攻防戦が展開された。市街戦のなかで陥落一歩手前まで追い込まれたソ連軍は,11月反撃を開始し,2月ドイツ軍は降伏した。43年夏ドイツは再び攻勢をかけたが,ソ連側はすでに立直りをみせ,7月クルスクでなされた大戦車戦において勝利し,以後この戦線で反撃を開始し徐々にドイツ軍を追い込んでいった。この期間連合国側の協力体制も固まりつつあった。独ソ戦開始の直後イギリスとソ連は7月相互援助条約を結び,11月には武器貸与がソ連になされ,42年1月には連合国共同宣言が出された。イギリス,アメリカ間で密接な協力関係ができあがり,ソ連も軍事援助を受けはじめた。しかしソ連が参戦直後から要求していた連合国側による大陸での対ドイツ戦線(第二戦線)の問題をめぐり,フランスに上陸すべきとするアメリカと北アフリカにまず上陸すべきとするイギリスとの間で戦略上の対立が起こり,結局,イギリスの主張がとおり北アフリカに上陸作戦が展開された。そして43年1月スターリンは戦局の進展のため出席できなかったが,ローズベルト,チャーチルの会談がカサブランカで開かれシチリア侵攻とフランス上陸を話し合い,また枢軸国に〈無条件降伏〉を求めることが決定された(カサブランカ会談)。そして,この〈第二戦線〉問題は43年いっぱい話し合われることになった。

1943年暮れ,ソ連軍はドイツによって占領された領土の2/3を解放し,一路ベルリンへと向かっていた。イタリア方面で連合国軍はイタリア半島の南部からドイツの頑強な抵抗にあい,苦戦を強いられながらローマへと向かっていた。43年11月テヘランでローズベルト,チャーチル,スターリンの会談が開かれ(テヘラン会談),連合国軍のフランス上陸作戦が決定された。チャーチルはこの作戦よりもバルカン半島への攻撃を主張していたが,ローズベルトとスターリンは戦争の早期終結を願い譲ることはなかった。44年6月6日ノルマンディー上陸作戦が開始され,その日約15万人,1週間で約36万人が上陸した。ドイツ側は警戒してはいたものの有効な反撃ができず,1ヵ月はもちこたえたが,その後撤退を開始した。連合国軍は8月には侵攻を始め,8月25日パリを解放し,フランスの大半とベルギーを解放した。しかし,補給線がのびすぎたためドイツ本土の攻撃は見送られた。12月ドイツ軍は敵の補給路の分断をはかるためアルデンヌから機甲部隊による反撃を試みたが失敗に終わり,45年2月連合国軍は,北海からストラスブールにわたる西部戦線で進撃を開始し,3月ライン川を突破し,4月上旬にはエルベ川に達していた。一方,ソ連軍は44年6月大攻勢を開始し白ロシアのドイツ軍を撃破,8月にはワルシャワ近郊にまで進軍した。このとき,ワルシャワでドイツからの解放をめざす蜂起が起こり,2ヵ月にわたる激戦のすえ悲劇的な最後を迎えた。ソ連軍はそれを静観し,その主力をバルト海方面とバルカン方面に向けた。東欧の国はドイツの敗北が近いことをみて動揺しており,ソ連軍の侵攻とともに降伏した。9月ルーマニア,ブルガリアが,10月にはチトーのもとでほぼ掌握されていたユーゴスラビアが解放された。しかし,ハンガリーではブダペストで強硬なドイツ軍の抵抗にあった。45年1月ソ連軍は再び大攻勢を始め,東プロイセン・ワルシャワ・ブダペストの線を突破し,4月下旬ベルリンに入城した。

 1945年4月30日ヒトラーは自殺し,第三帝国は崩壊した。1942年夏,ドイツの〈ヨーロッパ新秩序〉はその絶頂にあり,ヨーロッパのほとんどを占領体制と衛星国を通じて支配していた。この支配圏の拡大は,同時に不服従者の仮借なき弾圧と過酷な人種政策というナチズムの全体的支配の拡大でもあった。その中心にあったのは,ヒムラーのもとで巨大な権力を獲得していた親衛隊であった。ドイツ国内,そして支配下におかれた地域では不服従者の逮捕・弾圧や労働者の強制連行がなされ,とくに占領下のポーランド,ロシアにおいては強制追放や大量逮捕などが行われ,住民の奴隷化がなされていった。このようなテロル支配を象徴するのが,反ナチス的人物を逮捕・拘禁し,強制労働を課して殺害すらした強制収容所に代表される各種の収容所であり,またアウシュビッツの絶滅収容所を中心になされたユダヤ人の計画的な大量殺戮(さつりく)であった。しかし,どの占領地域においても支配者や対独協力者に対してさまざまな抵抗運動が展開されていた。ドイツの勝利が疑わしくなり,弾圧も強化されるにつれて,抵抗運動はますます激化し,地下活動をこえて公然たるサボタージュや,場合によってはストライキすらも起こっていた。ドイツ国内でもナチズムへの抵抗が続けられており,戦局の悪化とナチズムの犯罪的行為をみてナチズムの転覆をはかるヒトラーの暗殺計画が44年7月20日に実行されたが,失敗に終わった(反ファシズム運動)。戦局の悪化とともにヒトラーは勝利にかえて熱狂的な徹底抗戦を唱え大規模な動員をはかり,また,どの町も村も防衛されるか焦土と化せられねばならないという焦土作戦を命じていた。彼は,自分の没落はドイツ国民そのものの没落であると考えていたのである。ヒトラーの死後デーニッツが総統になり,5月7,8日ドイツ軍は無条件降伏し,ヨーロッパの戦争は終りを迎えた。

イギリス,アメリカ,ソ連の3国は,ドイツという共通の主要敵に対して〈大同盟〉と呼ばれる協力関係を維持していたが,戦争の遂行に関して,また将来の構想についても見解の対立が存在しており,協力と対立という複雑な関係を呈し,戦局が連合国に有利になるにしたがい,対立の局面が徐々に表面に現れてきた。そのため戦後の〈冷戦〉の起源はこの時期にあると考えられている。戦後構想は,1943年に入りイギリス,アメリカ間で考えられはじめた。問題はソ連が参戦以来要求してきた〈第二戦線〉であり,またソ連とポーランドの国境画定であり,イギリス,アメリカ側はソ連をつなぎとめるためにも,また〈国際連合〉として実現される新しい国際秩序への同意を得るためにもソ連の同意を必要としていた。43年10月モスクワで3国外相会談が開かれ,44年に〈第二戦線〉を開くことを伝え,国際連合の設置に同意する中国をも含めた〈四国共同宣言〉が出された。その後43年11月28日から12月1日テヘランで3国首脳会談が開かれ,その直前と直後カイロで英・米・中の首脳会談も開かれ(カイロ会談),太平洋戦争の戦争遂行と〈無条件降伏〉後の日本の扱いが話し合われていた。テヘラン会談では,チャーチルがバルカン半島方面にも攻撃することを主張して議論が紛糾したが,〈オーバーロード〉と称される,フランス上陸作戦の内容がスターリンに伝えられ,スターリンはそれと同時にソ連も東部戦線で攻勢をかけることと,対独戦の終了後,対日戦にも加わることを約束した。戦後処理について問題となったのは,解放後の政府と国境に関する問題,ポーランドに関する問題とドイツの戦後処理の扱いであり,合意にはいたらなかった。イギリス,アメリカとソ連の協調がうたわれたものの,その背後では相手側への不信も強まっていた。

 1944年に入り,イギリス,アメリカとソ連の間の溝は深まっていった。一つはソ連の東欧進出の問題であり,東欧とバルカンの各国がソ連の勢力圏に陥りはじめ,この事態に対してチャーチルは10月スターリンとの間で勢力圏の分割協定を結び,西側の影響力を確保しようとしたが,その後の進展のなかでむなしく終わってしまうことになった。二つめは,ドイツ処理の問題であり,基本的に分割占領が決められたが,その扱い方には各国で,また各国内部でも見解の対立が存在していた。三つめは,アメリカとイギリスは,この時期,原爆開発にのりだしていたが,それはソ連を排除したかたちで進めていったことである。ドイツの敗北が明らかになるにつれて,戦後処理を協議する必要に迫られ,45年2月4日から11日までクリミヤ半島のヤルタで3国の首脳会談が再び開かれた(ヤルタ会談)。この会談では,ソ連の対日参戦とその代償措置が決定され,ポーランド問題では政府のあり方について妥協がなされ,国境に関しては東部でソ連に割譲する代りに,ドイツとの国境をオーデル川・ナイセ川まで移動させることが決定された。ドイツに関しては処理の基本でも合意をみた。また国際連合に関してもソ連の最終的合意が得られ,5月にはサンフランシスコで設置総会が開かれた。この会談に対してその直後からローズベルトとチャーチルに,スターリンに譲歩しすぎたという批判が浴びせられることになった。しかし,この2巨頭はソ連の東欧進出をまえに,スターリンに彼が得たもの以上を与えないという意味で現状を承認したのである。ただしチャーチルはこの現状を〈力〉で維持する方向に傾いていたのに対し,ローズベルトは〈話合い〉によってまだ懸案の解決はできると考えていた。しかしチャーチルは45年7月の選挙で敗北して労働党のアトリーに代わり,またローズベルトも4月病死しトルーマンに代わることになる。7月17日から8月2日までポツダムで最も長い3国首脳会談が開かれた(ポツダム会談)。中心となった問題はドイツの処理問題であり,分割占領・非軍事化・民主主義的政治体制については合意したものの,賠償の問題と統一ドイツ政府の問題では決着をみず,妥協の結果ポツダム協定が締結された。その他の問題も協議されたが,ほとんどめぼしい成果はないまま終わった。おりしも7月16日アメリカで最初の原爆実験が成功し,アメリカは戦争の早期終結のためその使用を決意し,7月26日,日本に早期降伏を勧告するポツダム宣言を送った。そして,日本がこれに応じないのをみて8月6日広島に,9日長崎に原爆を投下した。ソ連も8日参戦し,この事態をみて日本は15日降伏した。

第2次世界大戦の終結から約45年を経た現在,この戦争の歴史的位置も明らかになりつつある。一つはいうまでもなくヨーロッパの国際政治上の没落である。長く世界政治の中心にあったヨーロッパは確実に没落していった。戦後のヨーロッパの国際政治を支配したのはアメリカであり,ソ連であった。自分たちが生活するヨーロッパの領域においてすら,戦後長い間その主導権を大きく制約されることになった。そればかりではなく,長い間非西欧の地域に植民地帝国を保持していた各国は,戦後の没落のなかで植民地の独立を認めざるをえなくなった。ヨーロッパのかつての列強は多くの時間を要しながらも,自国を中等国と認識し,そのように行動するようになっていったのである。第2は,長い目でみると第2次世界大戦は,19世紀の後半から徐々に前面に出はじめた政治社会のあり方に関する対立が最も激化したときに起きた戦争であったということである。デモクラシー,ファシズム,コミュニズムという政治体制の理念をめぐる対立が激化し,いわば〈ヨーロッパ内戦〉といわれる状況を呈したのである。そしてヨーロッパは,少なくとも西ヨーロッパでは戦後の経済成長のなかで,デモクラシーが成熟するのをまって新しい時代に入ったといえる。
太平洋戦争 →冷戦
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「第2次世界大戦」の意味・わかりやすい解説

第2次世界大戦【だいにじせかいたいせん】

1939年9月1日から1945年8月15日,ヨーロッパ・中東・アジア・太平洋全域にわたり,文字通り世界的規模で行われた戦争。ファシズム体制をとる日・ドイツ・イタリア3国を中心とする枢軸国に対して,米・英・ソ・中国などを中心とする連合国が,資本主義国と社会主義国という内部対立を含みながらも反ファシズムという共通の目標を掲げて遂行した戦争であった。〔前史〕 第1次大戦後のベルサイユ体制は英・フランスなどの戦勝国を中心とするもので,社会主義国のソ連,敗戦国のドイツ,従属地域諸民族などは多大の犠牲を強いられた。1929年の大恐慌は世界的に深刻な影響を与え,いわゆる相対的安定期は終わり,国際通商戦が激化し,ブロック経済への動きが始まった。恐慌の影響の最も著しかったドイツでは1933年ナチス政権が出現,国際連盟を脱退してベルサイユ体制打破を強行した。1922年すでにムッソリーニの下でファシズム体制を確立したイタリアは1935年エチオピアを侵略(イタリア・エチオピア戦争),1937年国際連盟を脱退。1931年の満州事変以後中国大陸侵略を強行していた日本も,1933年国際連盟を脱退,1937年から日中戦争を開始した。日・ドイツ・イタリア3国の侵略政策に英・米・フランスなど資本主義国はもっぱら宥和(ゆうわ)政策をもって対していた。他方民衆の間には国境を越えて反戦・反ファシズム運動が広がり,労働者階級から中間層まで含んだ人民戦線運動として定着,1936年スペインとフランスでは人民戦線政府が出現した。中国ではすでに1935年の八・一宣言によって抗日民族統一戦線が形成されていた(〈抗日戦争〉参照)。こうした事態にあってドイツ・イタリアは1936年秘密協定を結び,スペイン内乱に介入して人民戦線政府を打倒,また1936年日独防共協定が締結されて,いわゆる枢軸陣営が形成された。次いでドイツはオーストリアを併合,1938年ミュンヘン会談によってチェコからズデーテン地方を割取した。〔開戦〕 ミュンヘン会談後,ドイツはさらにポーランド回廊割譲を要求したが,ポーランドはこれを拒否。ドイツは独ソ不可侵条約を締結したうえで,1939年9月1日突如ポーランドに宣戦,侵攻を開始し,大戦の口火が切られた。ソ連も独自に東部ポーランドを占領。9月3日英・フランスは対ドイツ宣戦を布告したが,以後半年はソ・フィン戦争を除けば双方とも積極的な動きはみせず,いわゆる〈奇妙な戦争〉期を現出した。〔初期の戦況〕 全体の戦局は1940年春から活発となり,ドイツ軍はデンマーク,ノルウェーを占領,中立国オランダ,ベルギーを侵略して一気にマジノ線を突破してパリを占領,英・フランス軍はダンケルクから撤退。6月22日独仏休戦協定が成立,北仏はドイツの占領下に置かれ,南仏は親独的なビシー体制下にあったが,英国へ脱出したド・ゴールは徹底抗戦を唱えて自由フランス運動を開始。この間イタリアも参戦,9月には日独伊三国同盟が成立。1940年後半から1941年前半にドイツ・イタリア軍は北アフリカ,バルカン,中東に進出した。1941年6月ドイツはソ連侵略を開始,秋にはレニングラード,モスクワに迫った。これに対し英国はソ連と同盟を結び,米国はソ連援助を開始,英・米両国は大西洋憲章を発表して広範な反ファシズム体制を打ち出した。12月日本は真珠湾を奇襲,太平洋戦争が始まり,米国は日・ドイツ・イタリアに宣戦,日中戦争を含めてヨーロッパとアジアの戦争は完全に一体化した。1942年1月連合国共同宣言が発表され,反ファシズム戦争の遂行,単独不講和などを約した。〔戦局の転換〕 1942年半ばまでは枢軸国側が優勢で,アフリカ戦線ではスエズに迫り,東部戦線ではスターリングラードを包囲した。しかし西部戦線では連合国軍がヨーロッパ本土爆撃を開始,ドイツ占領地帯でのレジスタンス運動が激化してきた。アフリカ戦線では1942年11月英・米軍がモロッコ,アルジェリアに上陸,ドイツ軍はエル・アラメインの戦に敗れ,1943年5月連合国軍は完全にアフリカを制圧した。東部戦線でもソ連軍は1943年2月スターリングラード攻防戦でドイツ軍30万を包囲せん滅,総反撃に転じ,これが大戦全体の画期となった。7月ムッソリーニは失脚してバドリオ政権が誕生,9月英・米軍がイタリア本土に上陸,同3日イタリアは降伏し,10月対ドイツ宣戦を布告した。〔戦局終結〕 1944年6月6日連合国軍はノルマンディー上陸作戦に成功して第二戦線を形成,フランス国内のレジスタンス組織もこれに呼応して8月パリ解放が実現した。さらに12月アルデンヌにおけるドイツ軍最後の反攻(いわゆるバルジ作戦)を撃破した連合国軍は,1945年3月ライン川を越えてドイツ領に進攻した。東部戦線でもソ連軍はバルカンから東欧に進み,1945年1月ワルシャワ,4月ウィーンを占領,ユーゴは独力でドイツ軍を駆逐した。その間に,ドイツ軍に救出され北イタリアに新政権を立てたムッソリーニもレジスタンス組織に捕らえられ,4月28日銃殺。連合国軍は東西からベルリンを包囲し,4月30日ヒトラーは官邸内で自殺,5月2日ベルリンは陥落,ドイツは同8日降伏してヨーロッパの戦争は終わった。アジアでも日本は広島,長崎に原子爆弾を投下され,8月15日ポツダム宣言を受諾して無条件降伏し,第2次大戦は完全に終わった。〔連合国首脳会談〕 1943年10月モスクワ外相会議,11月カイロ会談テヘラン会談が開かれて米・英・ソを中心とする連合国の協力関係は著しく進んだ。1945年2月ヤルタ会談では戦後処理に関する具体案が決定され,米・ソ2大国支配体制が準備された。7〜8月ポツダム会談では日・ドイツ両国に対する戦後処理方針が確定,ポツダム宣言が発せられた。それより先の1944年ダンバートン・オークス会議で国連憲章草案が作成され,1945年サンフランシスコ会議国際連合設立が決定された。〔結果〕 国際連合の発足で新しい国際秩序が生まれ,そこでは米・英・フランス・ソ・中5ヵ国が中心となった。しかし,実際には米・ソ2大国の支配体制が確立し,第2次大戦で協力した両国も,戦後いち早く資本主義国・社会主義国の指導者としてブロック化を進めた。西欧では自由主義諸国が再興し,マーシャル・プランが実施され,また北大西洋条約機構(NATO),東南アジア条約機構,ヨーロッパ経済共同体(EEC)などが米国の指導で創設された。東欧では人民民主主義国が成立,コミンフォルム,コメコン(COMECON),ワルシャワ条約機構などがソ連の指導で創設され,また中ソ友好同盟相互援助条約なども生まれた。こうした東西二大陣営の対立は冷戦と呼ばれて戦後世界を特徴づけた。敗戦国との講和もこの情勢を反映して複雑となった。イタリアは早く自由陣営の一員として再興されたが,オーストリアは両陣営の妥協策として中立国化され,ドイツは分割占領を経て東西分裂を余儀なくされ,日本も米国勢力下に置かれた(サンフランシスコ講和条約)。また日・独両国指導者が戦争犯罪人として東京裁判ニュルンベルク裁判で処罰された。第2次大戦の結果生じた事態としては,上記のような少数大国による世界支配のほか,1.アジア,アフリカ,ラテンアメリカの民族解放運動が高まり,これを背景としていわゆる第三世界勢力が形成されたこと,2.国境を越えた規模で民衆運動が高まり,反戦運動が国際性を帯びたことなどがある。こうした動きが少数大国支配体制を揺り動かして新しい国際関係の成立を生み出す可能性をもちはじめた。〔損害〕 この大戦には枢軸国側9ヵ国,連合国側51ヵ国が参戦。軍人・市民を合わせ死者約2200万,負傷者約3440万といわれるが,中国や東欧などの一般市民の未確認数を考慮すれば,死者だけで4000万以上と推定される。また直接戦費は1兆1540億ドルに達した。
→関連項目アンネの日記国家総動員法サン・モリッツオリンピック(1948年)ダンケルク撤退作戦パリ条約引揚げ松代大本営闇市歴史認識問題ロンドンオリンピック(1948年)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「第2次世界大戦」の意味・わかりやすい解説

第2次世界大戦
だいにじせかいたいせん
World War II

1939~45年に世界のほとんどを巻き込んだ大規模な国際紛争。1931年に勃発した満州事変以降をいう場合もある。枢軸国(ドイツ,イタリア,日本)と連合国(フランス,イギリス,アメリカ合衆国,ソビエト連邦,中国)の二つの陣営に分かれて戦われたこの戦争は,第1次世界大戦で解決できなかった根強い対立が,20年間の中断を経て吹き出したものといえる。第1次世界大戦に敗れた苦い思いや,ベルサイユ条約の過酷な賠償,社会不安や政情不安など,ドイツ(ワイマール共和国)をめぐる諸条件は,極端な愛国主義と反ユダヤ主義の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者,アドルフ・ヒトラーの台頭を招いた。1933年,独裁的な権力を得たヒトラーはひそかに再軍備を始めた。イギリス,フランスの宥和政策(→アピーズメント・ポリシー)に乗じたヒトラーは,1936年3月ベルサイユ条約に違反して,ラインラントの占領を命じた。すでにエチオピア侵略にとりかかっていたイタリアのファシスト党指導者ベニト・ムッソリーニは,この年ローマ=ベルリン枢軸を宣言した。翌 1937年イタリアは,日本とドイツが 1936年に結んだ日独防共協定に参加した。またドイツとイタリアは反共産主義の名目で,1936年に勃発したスペイン内乱に干渉した。
1938年3月,ヒトラーはオーストリアへ出兵し,これを併合した(→アンシュルス)。さらに 1939年3月には,内外の圧力を巧みに利用してチェコスロバキアの分割にも成功,4月にはイタリアがアルバニアを併合した。8月東ヨーロッパの勢力範囲を定めた独ソ不可侵条約が締結され,これに大きな衝撃を受けた英仏陣営が対策に焦っている間に,9月1日ドイツはポーランド侵攻を決行,9月3日イギリスとフランスはドイツに宣戦布告した。1939年の終わりには,ポーランドがドイツとソ連によって分割され,さらにソ連はエストニア,ラトビア,リトアニアを占領し,フィンランドへ侵攻,1940年3月フィンランドは降伏した。数ヵ月にわたってドイツ軍の主要な活動は海上で行なわれ,特にイギリス行きの商船に対する攻撃は効果的であった。1940年4月,ドイツはノルウェーの港の一部と,デンマークのすべての港を占領した。5月10日,西部戦線のドイツ軍主力部隊は,オランダ,ベルギーを経由してフランスへ向かう電撃作戦を開始した。6月22日にはパリを含むフランス領の 5分の3がドイツに占領され,残りはビシー政府のもとで中立地帯とされた。8月から 9月にかけて,ドイツ空軍はイギリス本土侵攻を目的とする大規模な爆撃を行なった。だが,イギリス本土航空決戦に勝利を収めたのはイギリス空軍で,この結果ヒトラーはイギリス本土への侵攻を無期限延期とした。11月,イタリアのギリシア侵攻が失敗に終わったのち,ヒトラーはハンガリー,ルーマニア,スロバキアを枢軸国に引き入れた。ブルガリアもドイツの説得を受け入れ,1941年3月日独伊三国同盟に加盟した。4月,ドイツはユーゴスラビア,ギリシアへ侵攻し,両国は 1ヵ月足らずで降伏した。6月,ヒトラーは 1939年の独ソ不可侵条約を破棄し,突如としてソ連に対して大規模な電撃作戦を実施した。ドイツ装甲部隊はソ連領内深くまで攻め込み,一時はモスクワの一歩手前まで到達したが,ソ連軍の反撃と冬の厳寒期の到来で,それ以上進めなくなった。
一方,もう一つの枢軸国である日本は,日中戦争が長期間にわたって泥沼化しており,ヨーロッパの混乱に乗じて,極東アジアにあるヨーロッパ諸国の植民地を獲得しようと決意した。戦争が拡大すればアメリカが最大の対抗勢力となるに違いないと考えた日本は,機先を制しようと,1941年12月7日から 8日にかけて,ハワイの真珠湾の軍事施設とそこに停泊するアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃した。アメリカはすかさず全枢軸国に対して宣戦布告した(→真珠湾攻撃)。日本はフィリピン,ビルマ(ミャンマー),オランダ領東インド(インドネシア)など東南アジアのほとんどと太平洋の島々を占領するなど,迅速な攻撃で初期には大きな戦果を上げたが,1942年6月,ミッドウェー海戦で決定的な敗北を喫した。
北アフリカでは,1940~41年にはるかに優勢なイタリア軍を打ち破ったイギリス軍が,ドイツのアフリカ装甲部隊を相手に,一進一退の膠着状態にあった。1942年11月,英米連合軍の北アフリカ上陸作戦が開始された。ドイツ軍はずるずると撤退し,チュニジアへ追いつめられ,1943年5月,ついに全軍が降伏した。6月,連合軍は北アフリカをたってシチリア島へ上陸し,そこを足場に 9月にはイタリア本土へ侵攻した。ファシスト政権は倒され,10月にはイタリアは連合国側へ入り,この後イタリア領内ではドイツ軍との戦いが終戦まで続いた。
激しい抵抗にあい,結局は失敗に終わったスターリングラードの戦い(1942年8月~1943年2月)ののち,ソ連領内のドイツ軍は勢いを失った。ソ連軍は引き続き兵力を増強し,1943年にはソ連西部からドイツ軍を一掃した。一方西部戦線では,ドイツは連合国の大陸進攻に備えなければならなかった。1944年6月6日,ドワイト・D.アイゼンハワー将軍の指揮のもとイギリス,カナダ,アメリカの連合軍 15万6000人が,北フランスのノルマンディーに上陸した(→オーバーロード作戦)。制空権を握った連合軍は,すばやく足場を固めたのち東へ向かい,1945年3~4月にはドイツ本土を占領した。ソ連軍は 1944年には領内から完全にドイツ軍を駆逐したばかりか,ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリー,ルーマニアにまで進出し,1945年初めにはドイツの東側 3分の1を占領した。ソ連軍がベルリンを包囲するなか,ドイツ崩壊に直面したヒトラーは 1945年4月30日自殺,5月7日ドイツは無条件降伏した。太平洋では,アメリカのダグラス・マッカーサー将軍指揮下,連合軍は 1944年10月フィリピン攻略にとりかかり,日本海軍はレイテ湾海戦で壊滅的な打撃を受けた。激しい戦闘の末 1945年3月に硫黄島(→硫黄島の戦い)を,6月に沖縄(→沖縄の戦い)を攻略した連合軍は,日本本土への大規模な戦略爆撃と,地上部隊による本土上陸を可能にした。8月6日に広島,9日に長崎に原子爆弾が投下され(→原子爆弾投下),9月2日,日本は降伏文書に正式調印,第2次世界大戦は終結した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「第2次世界大戦」の解説

第2次世界大戦
だいにじせかいたいせん

ベルサイユ・ワシントン体制下の秩序を,英・米・仏だけを利するものだと批判する日・独・伊3国が,それぞれ局地的に領土の拡張をはかり,武力で勢力均衡を破ったことに起因する世界戦争。1939年9月1日のドイツのポーランドへの電撃的侵攻で始まった。41年(昭和16)12月8日の太平洋戦争勃発とともに,枢軸国(日・独・伊など)と連合国(英・米・ソ・中・仏など)間の戦いは大西洋・ヨーロッパ大陸・地中海・アフリカ・中国・東南アジア・太平洋上に拡大した。はじめは総動員体制を早期に整えていた枢軸側が有利だったが,42年半ばから,生産力で絶対的優位にある連合国が反攻に転じた。43年9月3日イタリアの,45年5月8日ドイツの,同年9月2日日本のそれぞれの無条件降伏文書への調印で終結した。全参戦国の軍人の犠牲は戦死1490万人,戦傷2522万人,非戦闘員の死亡は3857万人と推計されている。

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世界大百科事典(旧版)内の第2次世界大戦の言及

【アメリカ合衆国】より

…【斎藤 眞】
【経済,産業】

[経済成長への離陸]
 アメリカ合衆国は,世界のうち土地面積では約6%,人口は約5%を占めるにすぎないが,国民総生産では約22%にも達する世界第1の経済大国であり,その規模は2位以下のソ連や日本を2倍程度引き離している(1979)。もちろん,この世界経済に占めるアメリカの相対的地位は,かつて圧倒的優位を誇った第2次世界大戦の終了時と比較すると明らかに低下している。しかし,それでもなお今日,国際政治や軍事力と並んで,経済力においても世界の最強国であることに変りなく,また国民所得や生活の水準でも世界最高のグループに属している。…

【戦間期】より

…第1次世界大戦の終結(1918年11月)から第2次世界大戦の勃発(1939年9月)までの約20年間を指すが,この時期は,国際政治史の観点からすれば,戦後処理から安定に向かった1920年代が大恐慌の突発(1929)によって一挙に暗転し,激動と対立の30年代につなげられ,再び世界大戦へと帰結する,〈20年間の休戦〉とも呼びうる時期であった。 一般に1880年代以降,世界は近代から現代へと移り変わりはじめ,第1次大戦はこの転換過程を加速したといわれているが,戦間期はこうした流れが一時的に中断され,古い要素と新しい要素が入りまじり,せめぎ合ってユニークな合成効果を生んだのであった。…

【戦争犯罪】より

…第2次世界大戦末まで一般に使われてきた意味に従えば,戦争犯罪とは,戦争法規に違反する行為であって,それを行いまたは命じた者を交戦国が捕らえた場合,これを処罰しうるものをいう。日本では,戦時犯罪または戦時重罪と呼ばれてきた。…

【大祖国戦争】より

…1941‐45年のソ連邦とドイツおよびその同盟国との戦争に与えられたソ連側の呼称。第2次世界大戦の一部を構成するもので,1941年6月22日,ドイツ側の奇襲攻撃に始まり,45年5月8日,ベルリン近郊カールスホルストにおけるドイツ軍の無条件降伏文書の調印をもって終わった。ソ連側では3期に区分しており,第1期(1941年6月~42年11月)は防衛戦闘から戦線の膠着(こうちやく)化まで,第2期(1942年11月~43年12月)はスターリングラード(現,ボルゴグラード)における反撃から総反攻への移行まで,第3期(1944年1月~45年5月)はウクライナ解放からベルリン陥落までとしている。…

【太平洋戦争】より

…1941年12月8日から45年9月2日にかけて日本と連合国とのあいだで戦われた戦争。
【戦況】

[戦争の原因]
 太平洋戦争は満州事変および日中戦争とともに十五年戦争と総称され,十五年戦争の第3段階にあたり,かつ第2次世界大戦の重要な構成要素をなす戦争である。近年は,戦争の実質からして〈アジア・太平洋戦争〉という呼称も提唱されている。…

【レジスタンス】より

…第2次世界大戦期,枢軸国,とくにドイツの占領下に置かれた諸地域において起こった,占領支配に対する抵抗運動。広義には,中国の抗日闘争をも含めて,アジア諸地域における日本の占領支配への抵抗にも,この言葉が用いられることがあるし,また他方,ナチズムに対する抵抗というような,ファシズム体制へのそれぞれの国の反対の動きに関して用いられる場合もあるが,後者は反ファシズム運動として扱われるものであり,ここではヨーロッパに限定して占領支配への抵抗の意味でみていくことにする。…

※「第2次世界大戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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