改訂新版 世界大百科事典 「対日占領政策」の意味・わかりやすい解説
対日占領政策 (たいにちせんりょうせいさく)
1945年8月14日のポツダム宣言受諾から,52年4月28日の対日平和条約発効までの期間は連合国(実質的にはアメリカ)によって日本の動向が決められた。この占領期の政策全般を対日占領政策,ないし占領政策というが,ここでは政策にとどまらず,世相にいたるまでこの時代の諸相を概括する。
ポツダム宣言の第7項は〈右の如き新秩序が建設せられ且日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至る迄は連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する為占領せらるべし〉と連合国の占領を定めており,日本占領のための連合国軍最高司令官にはアメリカのマッカーサーが任命された。アメリカ軍の先遣部隊は1945年8月28日に厚木に到着し,9月2日正式に降伏文書が調印され,以後アメリカ軍は9月中に日本全土を占領した。一部にはイギリス連邦軍の参加があったが,実質的には日本占領にあたったのはアメリカ軍であった。この〈占領軍〉は〈進駐軍〉とも呼ばれた。また46年2月から,連合国の対日占領の最高機関として11ヵ国(1949年以降は13ヵ国)からなる極東委員会がワシントンに設けられ,さらに東京に最高司令官の諮問機関として米英中ソの4ヵ国からなる対日理事会が設けられたが,いずれもその権限は形式的で,実質的にはアメリカの単独占領であり,アメリカの対日占領政策が占領政策を左右した。日本占領にあたった連合国軍最高司令部GHQ=SCAP(General Headquarters,Supreme Commander for the Allied Powers)は,同時にアメリカ軍の極東軍総司令部であり,極東委員会の指令よりもアメリカ政府の指令にもとづいて占領政策を行ったからである。
民主化政策
占領下の日本は,占領政策の動向によって前後の2期に分けられる。前半は,1945年8月アメリカ国務,陸軍,海軍3省調整委員会作成の〈降伏後における米国の初期の対日方針〉に示されているアメリカの占領目的,すなわち〈日本が再び米国の脅威とならないよう〉〈米国の政策を支持する平和的な政府をつくる〉ことが占領政策の基本であった。この対日非軍事化政策と,ポツダム宣言の示す民主化とはほぼ目的が一致しており,日本民主化をめざす諸改革が相次いで実行された。日本における最高権力者であったGHQの統治は,直接軍政を施くのではなく,日本政府に指令を出し,政府をしてそれを実行させる間接統治の形態をとったが,占領直後からやつぎばやに改革を指令して民主化政策を実行させたのである。また,この時期にはA級戦犯を対象とする東京裁判(1946年5月3日~48年11月12日)も,東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校大講堂で開かれた。
これに対し日本政府は,なるべく占領の衝撃を和らげ,戦前からの支配体制を温存するように努めた。ポツダム宣言受諾とともに鈴木貫太郎内閣が総辞職し,皇族の一員である陸軍大将東久邇宮稔彦王が内閣を組織した。東久邇内閣は国民に対し〈承詔必謹〉と〈国体護持〉を説き,天皇制支配の維持に努めるとともに,〈一億総懺悔(そうざんげ)〉を主張して国民からの戦争責任の追及を免れようとした。これに対しGHQは,1945年9月19日〈自由な新聞のもつ責任とその意味を日本の新聞に教えるものである〉とするプレス・コード(言論統制)を発表し,さらに10月4日,〈自由制限の撤廃についての覚書〉を出し,天皇に対する批判の自由,政治犯の釈放,特高警察の廃止,山崎巌内相の罷免などを命じ,東久邇内閣はこの衝撃で総辞職した。かわって成立した幣原喜重郎内閣に対し,マッカーサーは首相への要求で,人権確保の五大改革,すなわち婦人解放,労働組合結成奨励,教育民主化,秘密法制の撤廃,経済の民主化を命じた(1945年10月)。そして婦人参政権の承認,選挙法改正,農地改革,財閥解体,その他自由と民主主義のための諸改革が実行された。46年1月4日には軍国主義者の公職追放が指令された。こうした一連の改革の仕上げが憲法改正であって,GHQ草案にもとづいて幣原内閣によって作成された憲法改正案が,46年6月吉田茂内閣によって議会に提出されて成立し,11月3日公布,翌47年5月3日施行されたのである。新憲法の制定にともない,刑法,民法をはじめ諸法律も改正もしくは新たに成立し,一連の民主改革が進められていった。
戦時中,いっさいの情報を政府に独占されて,勝利のためにすべての努力を集中させられていた国民は,突然の敗戦を天皇のラジオ放送(玉音放送)で知らされて茫然(ぼうぜん)自失した。戦争の被害は大きく,諸物資の不足,食糧の欠乏,インフレなどを廃墟となった都市と荒廃した農村で迎えて,なによりも生存のための努力をつづけなければならなかった。しかし占領軍の指令による諸改革がすすむと,ようやく生活と自由を求めて立ち上がり,1945年末から46年にかけて労働運動,農民運動をはじめ,文化運動,婦人運動,部落解放運動,学生運動などがいっせいに広がった。また,日本共産党は獄中18年の徳田球一,志賀義雄らの釈放,中国からの野坂参三の帰国などによって合法政党としての活動を活発化した。46年4月に最初の総選挙が行われ,その結果は,自由党141,進歩党94,社会党93,協同党14,共産党5,諸派38,無所属81であった(婦人代議士39)。公職追放後にもかかわらず,保守政党が勝利を収めたということから,その後吉田内閣成立までの1ヵ月間の政治的空白をもたらすほど,政治の民主化を求める民衆運動の力が大きくなった。そして,なおもつづく食糧難とインフレのなかで,47年2月1日大規模なゼネラル・ストライキが計画され(二・一スト),GHQの命令で中止されたものの,労働運動が巨大な勢力となったことを示したのである。
二・一スト中止後の1947年4月,新憲法施行にともなう体制整備のため,衆議院,参議院,知事,市町村長,都道府県会議員,市町村会議員の選挙がつぎつぎに行われた。衆参両院とも社会党が第一党となったが,その議席数はともに三分の一足らずであった。この結果社会党委員長の片山哲を首班とする社会,民主,国民協同3党の連立内閣ができ,自由党は野党に回った。社会党首班内閣が成立したのは,何よりも労働攻勢を抑えて経済復興をはかることが先決だとする政財界の意図の反映であった。片山内閣は,新物価体系を定めて賃金と物価の固定化を行い,石炭,鉄鋼などの重点産業中心に経済復興をはかる傾斜生産方式を進めた。しかしインフレはとまらず,労働運動抑制策は労働者の不満をまねき,党内左派の反発を買って48年2月総辞職した。しかし労働攻勢を抑えて経済再建をはかる必要があるという事情は変わらず,民主党総裁芦田均を首班とする社会,民主,国民協同3党連立内閣が継続したが,芦田内閣も内紛がつづいたうえに昭電疑獄に有力閣僚が連座したことから48年10月総辞職した。こうして片山,芦田の両中道政権はともに短命に終わり,労働運動の鎮静化をはかったり経済復興への過渡期の役割を果たしただけにとどまった。
反共政策
1947年ごろからヨーロッパで米ソ二大国の対立が激しくなり,アジアでも中国内戦が激化し,48年には南北朝鮮にそれぞれ分裂国家が成立して,世界は〈冷戦〉の時代に入った。このなかでアメリカの対日政策は,日本の非軍事化,民主化をめざすことから,日本を〈反共の防壁〉として再建強化する方向へと大きく転換しはじめた(イールズ声明,レッドパージ)。それにともなって民主化政策も後退し,〈逆コース〉と呼ばれる反動政策への転化がはじまり,占領期の後半に入っていくことになる。
1948年10月に成立した民主自由党の第2次吉田茂内閣は,与党が少数であったため衆議院を解散し,49年1月総選挙を行った。この選挙では民主,社会,国民協同の中道3党は激減し,共産党は躍進したが,とくに民主自由党は単独で過半数を制して大勝した。この結果,選挙後成立した第3次吉田内閣は,左翼や労働運動に対する弾圧を強化し,団体等規制令(1949年4月)や人事院規則(1949年9月)を制定するなどの反動路線を強行した。一方経済政策では,48年12月にGHQの示した経済安定九原則をドッジ公使の勧告をいれて強硬にすすめ,徹底的な引締め合理化政策をとった(ドッジ・ライン)。また税制ではシャウプ使節団の勧告にしたがって,所得税を中心とする直接税中心の増税,資本蓄積のための減税を行った(シャウプ勧告)。こうして厳しいデフレーション政策でインフレを止め,中小企業を整理して合理化を推し進め,大企業中心の経済発展の地ならしを行った。このため深刻な不況,人員整理,失業が大きな社会問題となったが,これに対する抵抗にも徹底的な弾圧策がとられた。とくに国鉄の人員整理に対する反対闘争は激しく,その中で起こった下山事件,三鷹事件,松川事件は,この状況に複雑な影響を与えることとなった。
1950年6月朝鮮戦争が起こり,アジアの冷戦は熱い戦争に変わった。これに介入したアメリカは,在日米軍を根こそぎ投入し,手薄になった日本の治安維持と防衛のために,マッカーサーは急きょ警察予備隊(隊員数7万5000)の創設を命じた。新憲法施行後わずか3年で日本再軍備の第一歩が踏み出されたのである。一方,朝鮮戦争によるアメリカ軍の膨大な需要を満たすため,日本の工場も鉄道も港湾も動員され,特需ブームが起こった。ドッジ・ラインで沈滞していた景気は一転して好況を迎え,鉱工業の生産指数は初めて戦前の水準を超えた。
朝鮮戦争で苦戦を強いられたアメリカは,日本をアメリカ陣営の中の同盟国として再建強化する政策をとり,サンフランシスコ講和条約の締結を急いだ。これに対し日本国内では,日米軍事同盟体制の固定化に反対し,ソ連,中国を含む全交戦国との講和を望む全面講和論と,対米講和を急ぐ単独講和論が対立した。吉田内閣は講和を急ぎ1951年9月8日,サンフランシスコでアメリカなど48ヵ国との間に対日平和条約が調印された。中国は会議に招請されず,インド,ビルマ(現ミャンマー)は参加を断り,ソ連,チェコスロバキア,ポーランドは条約に反対して調印しなかった。同日日米両国間に日米安全保障条約も調印され,講和後もアメリカ軍の駐留がつづき,日米関係を固定化させることとなった日米安保体制が成立した。両条約の批准国会では,賛否をめぐって社会党が左右に分裂するなど国論を分けたが,民主自由党の圧倒的な優勢の下に批准は成立し,52年4月28日講和が発効して占領時代を終わったのである。
占領下の社会
占領下の日本は,社会や文化や風俗のうえに根本的な変動が生じた時期であった。敗戦によって,それまでの天皇制と軍国主義の日本を支えていたすべての価値観が崩壊し,一方では深刻な生活難,食糧難のつづくなかで,多くの国民は自己の生活と利益を守るのに精いっぱいであった。公的なたてまえに代わって私的な利益が優先し,実利主義,功利主義的考えが広がった。戦時中すでに形式化しつつあった家父長制的家族主義が崩壊し,夫婦単位の近代的家族が基本になり,のちの高度成長時代のマイホーム主義の原型がつくられた。憲法や民法の改正も大きな理由になって,女性の地位が向上し,人権感覚が定着していき,近代的自我の解放に向かって大きく前進した時期だったといえる。
戦前,戦中の厳しい統制と弾圧がなくなったことによって解放感は大きく,流行歌では並木路子の《リンゴの唄》(1945)や笠置シヅ子の《東京ブギウギ》が大流行した。また進駐軍放送(WVTR,のちFENと改称)から流れる音楽(とくにジャズ)が与えた影響も大きかった。そして,文学,美術,演劇,映画などあらゆる分野で活発な活動が再開された。生活の貧しさのなかにありながら,自我の解放,主体性の確立などが叫ばれ,一方では解禁されたマルクス主義の影響も大きく,さまざまな潮流が渦巻いて戦後の解放が謳歌された時代であった。それは出版に顕著に現れた。1945年11月には戦後最初の総合誌《新生》が創刊され,活字に飢えていた人びとの支持をえた。続いて《人民評論》《民主評論》などの雑誌が創刊された。この時期の誌名に《人民〇〇》《民主〇〇》《自由〇〇》《新〇〇》などというのが多いのはまさに時代を象徴している。戦時中の軍国主義教育を否定して行われた教育改革の影響は大きく,制度上に6・3・3・4制がとり上げられただけでなく,個性の自由な発展を主眼とした教育内容の変化もあって,教育が青少年ひいては社会に自我の解放という面で与えた影響も大きかった。また自由化は風俗の面にも及び,敗戦直後から〈性の解放〉が激しい衝撃をともなってはじまった。肉体文学,接吻映画,カストリ雑誌,ストリップショーなどが登場した。外国映画とくにアメリカ映画が,戦前のような検閲なしに輸入公開されたことも風俗のうえに大きな影響力をもった。
アメリカ占領軍の下にあってこの時代は,アメリカの直接の影響がきわめて大きかった。戦時中の〈もんぺ〉姿に代わってスカート姿の女性が増えてきたが,ストッキングは高嶺の花であった。そんななかでパンパン・ガールと呼ばれた娼婦たちは,スーツ,ストッキング,ショルダーバッグで身を装い,モードの先端を切っていた。飢えた子どもたちが,アメリカ兵の与えたチョコレートやチューインガムに群がっていた敗戦直後の時期にはじまって,文化や風俗や生活様式までがアメリカナイズされていった。食品におけるホットドッグやコカ・コーラ,服装におけるジャンパー,ジーンズなどに代表されるアメリカのスタイルが広がった。
娯楽のまだ乏しかったこの時代にも,戦時中に抑圧されていたスポーツは急速に広まり,用具の少ないなかで1946年から中等学校野球や六大学野球をはじめさまざまなスポーツが復活した。とくにプロ野球は,復活早々に人気を集め,48年にはナイターが試みられ,50年からは2リーグに分かれて日本シリーズがはじまり国民的スポーツとなった。48年に第2次大戦で中断していたオリンピック大会がロンドンにおいて開催されたが,敗戦国の日本は参加できなかった。しかし水泳の古橋広之進は同時期の47年から49年にかけて自由形で23回も世界新記録を書き換え,国民的英雄になった。それは貧困と苦難のなかにも活気に満ちたこの時代の清涼剤だった。敗戦直後には,全国の主要都市はほとんど焦土と化していたが,そのなかでも生活の営みはつづいた。焼跡にはバラックが建ち並び,駅前などには露店やマーケットが闇市場を形成し,値段はすべて需要と供給の関係で決まる自由市場であった。金さえ払えば何でも手に入れることのできる闇市は,民衆の経済生活の場となった。しかし,この占領期の経済活動を象徴する闇市は,51年から強制的に整理されてしだいに姿を消していった。そしてこの7年間に,ほとんどの都市は無秩序に再建された建物で埋まった。農地改革によって変化した農村とともに,この時代の都市の変化も急激だったのである。
執筆者:藤原 彰
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