対日占領政策(読み)たいにちせんりょうせいさく

改訂新版 世界大百科事典 「対日占領政策」の意味・わかりやすい解説

対日占領政策 (たいにちせんりょうせいさく)

1945年8月14日のポツダム宣言受諾から,52年4月28日の対日平和条約発効までの期間は連合国(実質的にはアメリカ)によって日本の動向が決められた。この占領期の政策全般を対日占領政策,ないし占領政策というが,ここでは政策にとどまらず,世相にいたるまでこの時代の諸相を概括する。

 ポツダム宣言の第7項は〈右の如き新秩序が建設せられ且日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至る迄は連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する為占領せらるべし〉と連合国の占領を定めており,日本占領のための連合国軍最高司令官にはアメリカのマッカーサーが任命された。アメリカ軍の先遣部隊は1945年8月28日に厚木に到着し,9月2日正式に降伏文書が調印され,以後アメリカ軍は9月中に日本全土を占領した。一部にはイギリス連邦軍の参加があったが,実質的には日本占領にあたったのはアメリカ軍であった。この〈占領軍〉は〈進駐軍〉とも呼ばれた。また46年2月から,連合国の対日占領の最高機関として11ヵ国(1949年以降は13ヵ国)からなる極東委員会ワシントンに設けられ,さらに東京に最高司令官の諮問機関として米英中ソの4ヵ国からなる対日理事会が設けられたが,いずれもその権限は形式的で,実質的にはアメリカの単独占領であり,アメリカの対日占領政策が占領政策を左右した。日本占領にあたった連合国軍最高司令部GHQSCAP(General Headquarters,Supreme Commander for the Allied Powers)は,同時にアメリカ軍の極東軍総司令部であり,極東委員会の指令よりもアメリカ政府の指令にもとづいて占領政策を行ったからである。

占領下の日本は,占領政策の動向によって前後の2期に分けられる。前半は,1945年8月アメリカ国務,陸軍,海軍3省調整委員会作成の〈降伏後における米国の初期の対日方針〉に示されているアメリカの占領目的,すなわち〈日本が再び米国の脅威とならないよう〉〈米国の政策を支持する平和的な政府をつくる〉ことが占領政策の基本であった。この対日非軍事化政策と,ポツダム宣言の示す民主化とはほぼ目的が一致しており,日本民主化をめざす諸改革が相次いで実行された。日本における最高権力者であったGHQの統治は,直接軍政を施くのではなく,日本政府に指令を出し,政府をしてそれを実行させる間接統治の形態をとったが,占領直後からやつぎばやに改革を指令して民主化政策を実行させたのである。また,この時期にはA級戦犯を対象とする東京裁判(1946年5月3日~48年11月12日)も,東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校大講堂で開かれた。

 これに対し日本政府は,なるべく占領の衝撃を和らげ,戦前からの支配体制を温存するように努めた。ポツダム宣言受諾とともに鈴木貫太郎内閣が総辞職し,皇族の一員である陸軍大将東久邇宮稔彦王が内閣を組織した。東久邇内閣は国民に対し〈承詔必謹〉と〈国体護持〉を説き,天皇制支配の維持に努めるとともに,〈一億総懺悔(そうざんげ)〉を主張して国民からの戦争責任の追及を免れようとした。これに対しGHQは,1945年9月19日〈自由な新聞のもつ責任とその意味を日本の新聞に教えるものである〉とするプレス・コード(言論統制)を発表し,さらに10月4日,〈自由制限の撤廃についての覚書〉を出し,天皇に対する批判の自由,政治犯の釈放,特高警察の廃止,山崎巌内相の罷免などを命じ,東久邇内閣はこの衝撃で総辞職した。かわって成立した幣原喜重郎内閣に対し,マッカーサーは首相への要求で,人権確保の五大改革,すなわち婦人解放,労働組合結成奨励,教育民主化,秘密法制の撤廃,経済の民主化を命じた(1945年10月)。そして婦人参政権の承認,選挙法改正,農地改革財閥解体,その他自由と民主主義のための諸改革が実行された。46年1月4日には軍国主義者の公職追放が指令された。こうした一連の改革の仕上げが憲法改正であって,GHQ草案にもとづいて幣原内閣によって作成された憲法改正案が,46年6月吉田茂内閣によって議会に提出されて成立し,11月3日公布,翌47年5月3日施行されたのである。新憲法の制定にともない,刑法,民法をはじめ諸法律も改正もしくは新たに成立し,一連の民主改革が進められていった。

 戦時中,いっさいの情報を政府に独占されて,勝利のためにすべての努力を集中させられていた国民は,突然の敗戦を天皇のラジオ放送(玉音放送)で知らされて茫然(ぼうぜん)自失した。戦争の被害は大きく,諸物資の不足,食糧の欠乏,インフレなどを廃墟となった都市と荒廃した農村で迎えて,なによりも生存のための努力をつづけなければならなかった。しかし占領軍の指令による諸改革がすすむと,ようやく生活と自由を求めて立ち上がり,1945年末から46年にかけて労働運動,農民運動をはじめ,文化運動,婦人運動,部落解放運動,学生運動などがいっせいに広がった。また,日本共産党は獄中18年の徳田球一,志賀義雄らの釈放,中国からの野坂参三の帰国などによって合法政党としての活動を活発化した。46年4月に最初の総選挙が行われ,その結果は,自由党141,進歩党94,社会党93,協同党14,共産党5,諸派38,無所属81であった(婦人代議士39)。公職追放後にもかかわらず,保守政党が勝利を収めたということから,その後吉田内閣成立までの1ヵ月間の政治的空白をもたらすほど,政治の民主化を求める民衆運動の力が大きくなった。そして,なおもつづく食糧難とインフレのなかで,47年2月1日大規模なゼネラル・ストライキが計画され(二・一スト),GHQの命令で中止されたものの,労働運動が巨大な勢力となったことを示したのである。

 二・一スト中止後の1947年4月,新憲法施行にともなう体制整備のため,衆議院,参議院,知事,市町村長,都道府県会議員,市町村会議員の選挙がつぎつぎに行われた。衆参両院とも社会党が第一党となったが,その議席数はともに三分の一足らずであった。この結果社会党委員長の片山哲を首班とする社会,民主,国民協同3党の連立内閣ができ,自由党は野党に回った。社会党首班内閣が成立したのは,何よりも労働攻勢を抑えて経済復興をはかることが先決だとする政財界の意図の反映であった。片山内閣は,新物価体系を定めて賃金と物価の固定化を行い,石炭,鉄鋼などの重点産業中心に経済復興をはかる傾斜生産方式を進めた。しかしインフレはとまらず,労働運動抑制策は労働者の不満をまねき,党内左派の反発を買って48年2月総辞職した。しかし労働攻勢を抑えて経済再建をはかる必要があるという事情は変わらず,民主党総裁芦田均を首班とする社会,民主,国民協同3党連立内閣が継続したが,芦田内閣も内紛がつづいたうえに昭電疑獄に有力閣僚が連座したことから48年10月総辞職した。こうして片山,芦田の両中道政権はともに短命に終わり,労働運動の鎮静化をはかったり経済復興への過渡期の役割を果たしただけにとどまった。

1947年ごろからヨーロッパで米ソ二大国の対立が激しくなり,アジアでも中国内戦が激化し,48年には南北朝鮮にそれぞれ分裂国家が成立して,世界は〈冷戦〉の時代に入った。このなかでアメリカの対日政策は,日本の非軍事化,民主化をめざすことから,日本を〈反共の防壁〉として再建強化する方向へと大きく転換しはじめた(イールズ声明レッドパージ)。それにともなって民主化政策も後退し,〈逆コース〉と呼ばれる反動政策への転化がはじまり,占領期の後半に入っていくことになる。

 1948年10月に成立した民主自由党の第2次吉田茂内閣は,与党が少数であったため衆議院を解散し,49年1月総選挙を行った。この選挙では民主,社会,国民協同の中道3党は激減し,共産党は躍進したが,とくに民主自由党は単独で過半数を制して大勝した。この結果,選挙後成立した第3次吉田内閣は,左翼や労働運動に対する弾圧を強化し,団体等規制令(1949年4月)や人事院規則(1949年9月)を制定するなどの反動路線を強行した。一方経済政策では,48年12月にGHQの示した経済安定九原則をドッジ公使の勧告をいれて強硬にすすめ,徹底的な引締め合理化政策をとった(ドッジ・ライン)。また税制ではシャウプ使節団の勧告にしたがって,所得税を中心とする直接税中心の増税,資本蓄積のための減税を行った(シャウプ勧告)。こうして厳しいデフレーション政策でインフレを止め,中小企業を整理して合理化を推し進め,大企業中心の経済発展の地ならしを行った。このため深刻な不況,人員整理,失業が大きな社会問題となったが,これに対する抵抗にも徹底的な弾圧策がとられた。とくに国鉄の人員整理に対する反対闘争は激しく,その中で起こった下山事件,三鷹事件,松川事件は,この状況に複雑な影響を与えることとなった。

 1950年6月朝鮮戦争が起こり,アジアの冷戦は熱い戦争に変わった。これに介入したアメリカは,在日米軍を根こそぎ投入し,手薄になった日本の治安維持と防衛のために,マッカーサーは急きょ警察予備隊(隊員数7万5000)の創設を命じた。新憲法施行後わずか3年で日本再軍備の第一歩が踏み出されたのである。一方,朝鮮戦争によるアメリカ軍の膨大な需要を満たすため,日本の工場も鉄道も港湾も動員され,特需ブームが起こった。ドッジ・ラインで沈滞していた景気は一転して好況を迎え,鉱工業の生産指数は初めて戦前の水準を超えた。

 朝鮮戦争で苦戦を強いられたアメリカは,日本をアメリカ陣営の中の同盟国として再建強化する政策をとり,サンフランシスコ講和条約の締結を急いだ。これに対し日本国内では,日米軍事同盟体制の固定化に反対し,ソ連,中国を含む全交戦国との講和を望む全面講和論と,対米講和を急ぐ単独講和論が対立した。吉田内閣は講和を急ぎ1951年9月8日,サンフランシスコでアメリカなど48ヵ国との間に対日平和条約が調印された。中国は会議に招請されず,インド,ビルマ(現ミャンマー)は参加を断り,ソ連,チェコスロバキアポーランドは条約に反対して調印しなかった。同日日米両国間に日米安全保障条約も調印され,講和後もアメリカ軍の駐留がつづき,日米関係を固定化させることとなった日米安保体制が成立した。両条約の批准国会では,賛否をめぐって社会党が左右に分裂するなど国論を分けたが,民主自由党の圧倒的な優勢の下に批准は成立し,52年4月28日講和が発効して占領時代を終わったのである。

占領下の日本は,社会や文化や風俗のうえに根本的な変動が生じた時期であった。敗戦によって,それまでの天皇制と軍国主義の日本を支えていたすべての価値観が崩壊し,一方では深刻な生活難,食糧難のつづくなかで,多くの国民は自己の生活と利益を守るのに精いっぱいであった。公的なたてまえに代わって私的な利益が優先し,実利主義,功利主義的考えが広がった。戦時中すでに形式化しつつあった家父長制的家族主義が崩壊し,夫婦単位の近代的家族が基本になり,のちの高度成長時代のマイホーム主義の原型がつくられた。憲法や民法の改正も大きな理由になって,女性の地位が向上し,人権感覚が定着していき,近代的自我の解放に向かって大きく前進した時期だったといえる。

 戦前,戦中の厳しい統制と弾圧がなくなったことによって解放感は大きく,流行歌では並木路子の《リンゴの唄》(1945)や笠置シヅ子の《東京ブギウギ》が大流行した。また進駐軍放送(WVTR,のちFENと改称)から流れる音楽(とくにジャズ)が与えた影響も大きかった。そして,文学,美術,演劇,映画などあらゆる分野で活発な活動が再開された。生活の貧しさのなかにありながら,自我の解放,主体性の確立などが叫ばれ,一方では解禁されたマルクス主義の影響も大きく,さまざまな潮流が渦巻いて戦後の解放が謳歌された時代であった。それは出版に顕著に現れた。1945年11月には戦後最初の総合誌《新生》が創刊され,活字に飢えていた人びとの支持をえた。続いて《人民評論》《民主評論》などの雑誌が創刊された。この時期の誌名に《人民〇〇》《民主〇〇》《自由〇〇》《新〇〇》などというのが多いのはまさに時代を象徴している。戦時中の軍国主義教育を否定して行われた教育改革の影響は大きく,制度上に6・3・3・4制がとり上げられただけでなく,個性の自由な発展を主眼とした教育内容の変化もあって,教育が青少年ひいては社会に自我の解放という面で与えた影響も大きかった。また自由化は風俗の面にも及び,敗戦直後から〈性の解放〉が激しい衝撃をともなってはじまった。肉体文学,接吻映画,カストリ雑誌,ストリップショーなどが登場した。外国映画とくにアメリカ映画が,戦前のような検閲なしに輸入公開されたことも風俗のうえに大きな影響力をもった。

 アメリカ占領軍の下にあってこの時代は,アメリカの直接の影響がきわめて大きかった。戦時中の〈もんぺ〉姿に代わってスカート姿の女性が増えてきたが,ストッキングは高嶺の花であった。そんななかでパンパン・ガールと呼ばれた娼婦たちは,スーツ,ストッキング,ショルダーバッグで身を装い,モードの先端を切っていた。飢えた子どもたちが,アメリカ兵の与えたチョコレートやチューインガムに群がっていた敗戦直後の時期にはじまって,文化や風俗や生活様式までがアメリカナイズされていった。食品におけるホットドッグやコカ・コーラ,服装におけるジャンパー,ジーンズなどに代表されるアメリカのスタイルが広がった。

 娯楽のまだ乏しかったこの時代にも,戦時中に抑圧されていたスポーツは急速に広まり,用具の少ないなかで1946年から中等学校野球や六大学野球をはじめさまざまなスポーツが復活した。とくにプロ野球は,復活早々に人気を集め,48年にはナイターが試みられ,50年からは2リーグに分かれて日本シリーズがはじまり国民的スポーツとなった。48年に第2次大戦で中断していたオリンピック大会がロンドンにおいて開催されたが,敗戦国の日本は参加できなかった。しかし水泳の古橋広之進は同時期の47年から49年にかけて自由形で23回も世界新記録を書き換え,国民的英雄になった。それは貧困と苦難のなかにも活気に満ちたこの時代の清涼剤だった。敗戦直後には,全国の主要都市はほとんど焦土と化していたが,そのなかでも生活の営みはつづいた。焼跡にはバラックが建ち並び,駅前などには露店やマーケットが闇市場を形成し,値段はすべて需要と供給の関係で決まる自由市場であった。金さえ払えば何でも手に入れることのできる闇市は,民衆の経済生活の場となった。しかし,この占領期の経済活動を象徴する闇市は,51年から強制的に整理されてしだいに姿を消していった。そしてこの7年間に,ほとんどの都市は無秩序に再建された建物で埋まった。農地改革によって変化した農村とともに,この時代の都市の変化も急激だったのである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「対日占領政策」の意味・わかりやすい解説

対日占領政策
たいにちせんりょうせいさく

第二次世界大戦で敗北した日本を占領管理するうえで連合国最高司令官総司令部(GHQ)が実施した政策。

[山田敬男]

対日占領管理の特徴

1945年(昭和20)8月15日、日本がポツダム宣言を受け入れ無条件降伏を行い、第二次大戦が終結した。日本が降伏すると、連合国はアメリカの太平洋陸軍司令官マッカーサーを対日占領の連合国軍最高司令官に任命する。8月末にマッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、9月2日に降伏文書の調印が行われると、全国的に占領が開始された。占領軍にはイギリス連邦軍もわずかばかり参加したが、大部分がアメリカ軍であり、事実上のアメリカによる単独占領といえるものであった。

 占領の方式は、占領軍の命令が最高司令官から日本政府に出され、日本政府が責任をもって施行する間接統治方式であった。占領軍の命令はポツダム勅令(新憲法施行後に「政令」)により超法規的な絶対的な性格をもっていた。また、この命令の監視のために、各地方に軍政部・軍政チームが置かれていた。

 沖縄は、沖縄戦により日本軍が壊滅して以降アメリカの軍政下に置かれていたが、降伏後も、奄美(あまみ)諸島や小笠原(おがさわら)諸島とともに本土から分離され、全面的な軍政下に置かれ、事実上ポツダム宣言の適用から除外されることになった。

 対日占領政策の最高決定機関として極東委員会が設立されたが、その決定はアメリカ政府とGHQを経過しなければ実施できず、さらにアメリカ政府の「中間指令権」が認められていたので、極東委員会の機能は制限され、アメリカの主導権が保障されていた。また最高司令官の諮問機関として対日理事会が設けられたが、ほとんど実質的な機能を果たすことができなかった。しかし、極東委員会や対日理事会が、第二次大戦直後の国際的な反ファシズム民主主義の世論を反映して、占領政策に一定の影響を与えたことも無視することができない。

 以上のように、連合国の対日占領政策はアメリカ政府の決定的な優位性を特徴としていた。同時に、第二次大戦直後という事情から、反ファシズム民主主義の国際世論が占領政策のあり方に一定の影響を与えていたことも事実であった。いわば、このアメリカの優位性と反ファシズム民主主義の国際世論の微妙な絡み合いのなかで占領政策が実施されていくことになる。さらにだいじなことは、国際情勢の急激な変化のなかで、1948年(昭和23)ごろを境に、占領政策が大きく転換していくことである。占領政策はこの転換によって性格を大きく変えることになる。

[山田敬男]

初期占領政策

初期の占領政策の一般的特徴は「非軍事化・民主化」政策といわれているが、これに大きな影響を与えているのはポツダム宣言である。ポツダム宣言は、1945年7月、ベルリン郊外のポツダムにおける米英ソ三国首脳会談で確認されたもので、連合国の対日占領政策の基本原則を定めた共同綱領ともいうべきものであった。同宣言には、連合国の軍事占領、軍国主義勢力の一掃、日本軍の武装解除、戦争犯罪人の処罰、民主主義の徹底などがうたわれており、さらに、目的を達成し、平和的で責任ある政府が樹立されれば占領軍はただちに撤退すると明記されていた。占領政策の従うべき大枠が明示されているのである。

 こうしたなかでアメリカ政府は、対日占領政策の具体化を図っていく。1944年12月、アメリカ政府内部に、国務省、陸軍省、海軍省の意見調整を図るため国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC、スウィンク)が設置され、本格的に占領政策の検討が開始されていたが、45年6月、「初期方針」が決定され、その後、ポツダム宣言の趣旨に添うよう修正されたのち、同年9月22日、「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」として発表された。

 このなかで、占領管理の「究極の目的」が「米国ノ脅威」と「世界ノ平和及安全ノ脅威」の防止と「平和的且責任アル政府」の樹立にあるとされ、その具体化として、軍国主義や超国家主義を排除し、政治、経済など各分野での「非軍事化・民主化」を推進することが明らかにされている。アメリカの国家的利益の強調とともに、この時期には、ポツダム宣言に添った占領政策が構想されていた。この背景には、アメリカの極東政策が、国民党政権のもとでの中国との協調を中心に据え、日本がアメリカや中国などの対抗的存在にならないように弱体化、民主化することにあり、そのためアメリカの国家的利益とポツダム宣言との両立が可能であるという事情があった。

 こうして「非軍事化・民主化」政策が具体化されていくが、その口火となったのが、1945年10月4日の「政治、民権及信教の自由に対する制限除去に関する件」であり、さらに、10月11日の「五大改革の指令」であった。前者は、治安維持法などの弾圧法規の廃止、政治犯の釈放、内務省警保局・特高警察などの廃止、警保局長・警察幹部の罷免をおもな内容としていた。こうして、天皇制国家を支えた治安維持法体制が崩壊し、政治犯が釈放されることになった。

 後者は、新任挨拶(あいさつ)にきた幣原(しではら)首相に対しマッカーサーが要求したもので、その中身は、選挙権付与による婦人の解放、労働組合の結成奨励、学校教育の自由主義化、秘密検察など弾圧諸体制の廃止、経済機構の民主主義化、というものであり、ポツダム宣言や「アメリカの初期対日方針」の具体化であった。

 さらに1945年12月には「神道(しんとう)指令」が出され、国家神道の廃止と政教分離が行われ、翌1946年1月には「公職追放令」が出され、軍国主義者や超国家主義者たちの公職からの追放が指示される。

 こうした民主化指令による諸改革が進むなかで、神権的で専制的な天皇制の解体が進み、やがて憲法問題が表面化してくる。マッカーサーは1945年10月11日、幣原首相に「憲法の自由主義化」=憲法改正を示唆し、それを受けて同内閣のもとに憲法問題調査委員会が設置されることになる。しかし、この憲法問題調査委員会は憲法改正にきわめて消極的であった。

 1946年1月7日、SWNCCで「日本の統治制度の改革」(SWNCC228)が決定され、マッカーサー最高司令官に指示された。その内容は、〔1〕連帯責任に基づく議院内閣制、〔2〕内閣不信任の際の総辞職か総選挙、〔3〕天皇の全行為は内閣の助言に基づく、〔4〕天皇の軍事に関する大権の剥奪(はくだつ)、〔5〕内閣による天皇への助言と補佐、〔6〕皇室財産の国庫への繰り入れと皇室費の国家予算への編入、というものであり、現憲法の骨格をなしていた。マッカーサーは、先の憲法問題調査委員会の消極性と明治憲法へのこだわりをみて、この指示に基づき、総司令部内に「草案作成のための三原則」(〔1〕天皇を元首とする、〔2〕戦争を放棄する、〔3〕封建制度を廃止する)を示して憲法草案の作成を指示したのである。こうして1946年2月13日にマッカーサー草案が日本政府に提示されるが、そのおもな特徴は、国民主権、象徴天皇制、戦争放棄などであった。マッカーサーは、天皇制を廃止すれば、日本国民の不満が増大し、占領管理に重大な障害が生じると考え、国民主権や戦争放棄とワンセットに位置づけ、政治権力から分離された象徴天皇制ならば、天皇制に厳しい国際世論に対応できると判断したのである。

 この結果、その後の複雑で激しい民主改革をめぐる運動を背景にしながら、新憲法が1946年11月に公布され、翌年5月に発効することになった。

[山田敬男]

冷戦の開始と占領政策の転換

1947年から1948年にかけて米ソ二大陣営間の冷戦が激しくなった。1947年3月、トルーマン米大統領は上下両院合同会議で、共産主義による革命運動の鎮圧のための経済援助を呼びかけた。いわゆるトルーマン宣言である。またマーシャル国務長官は「自由な諸制度・機構が存続できるような政治的・社会的情勢をつくりだす」ヨーロッパ復興計画を提唱した。いわゆるマーシャル・プランである。このトルーマン宣言やマーシャル・プランをめぐって、ヨーロッパの緊張が高まっていった。

 また、アジアにおいても冷戦状況が表面化してきた。1946年7月、中国の内戦が再開され、当初は国民党軍が優位であったが、やがて土地改革などを通じて共産党が農民の支持を獲得し、人民解放軍の勝利が決定的になっていった。さらに1948年には、朝鮮の南北分裂が決定的になる。

 こうした冷戦の激化、とりわけ中国における国民党の敗北は、アメリカの対日占領政策の見直しを迫るものであった。中国にかわる極東政策の拠点に日本が必要となったのである。そこで日本をこれまでの「非軍事化・民主化」政策によって弱体化、民主化するのではなく、アメリカの従属的同盟国として復活強化させる政策への転換が開始されることになった。

 1948年1月のロイヤル陸軍長官の演説はそのことを象徴的に示していた。彼は、日本の経済的自立が「全体主義」の防波堤になることを強調した。このことは、たとえば賠償問題に具体的に表れていた。1945年11月に来日したポーレーを団長とする使節団は、日本の平和経済を維持するために、アジアの近隣諸国の水準を超える工業施設は賠償としてアジア諸国に引き渡し、日本人の生活水準をアジア諸国より高くない水準にするという厳しい賠償計画を提唱していた。ところが、1947年に二度にわたって来日したストライク調査団は、賠償規模を縮小し、対象をおもに軍事施設に限定する報告書を作成した。さらに1948年3月に来日したドレーパー‐ジョンストン使節団は、賠償規模を第二次ストライク報告書の3分の1まで縮小することを提案する。この一連の賠償政策の変化の背景には、ロイヤル演説にみられる経済自立による「全体主義」の防波堤づくりという認識が存在していた。

 また労働組合への対応にも大きな変化が生まれてきた。占領軍は、すでに1947年の2.1ゼネストに直接介入してそれを禁止したが、1948年になると、官公労働組合の「三月闘争」への弾圧に加え、7月に、マッカーサーが当時の芦田(あしだ)首相に書簡を送り、国家公務員の労働基本権を制限する国家公務員法改正を指示した。これは、労働組合運動をある程度奨励した初期占領政策からの大きな転換であった。

 アメリカ政府内部の政策転換の動きは、1948年10月に大きな画期を迎えることになる。アメリカの外交政策決定で重要な機関である国家安全保障会議(NSC、1947年7月設置)は「日本に対するアメリカの政策についての勧告」(NSC―13/2)を決定した。その特徴は、当時のソ連の「共産主義勢力拡張政策」が世界の危機を生み出しているという情勢認識を前提にして、〔1〕対日講和条約は非懲罰的なものとする、〔2〕講和後の日本の安全保障のために警察力を増強する(警察予備軍の創設)、〔3〕総司令部の権限を削減し、日本政府の責任を増大させる、〔4〕対日政策の重点を経済復興に置き、「非軍事化・民主化」は中止または緩和する、などというものであった。

 この直後、1948年12月、アメリカ政府は日本政府に「経済九原則」を至上命令として指示した。これは、賃金抑制と人員整理によって日本経済の「自立化」と「安定化」を求めるもので、日本の独占資本を対米従属のもとで復活させようとするものであった。

 さらに1950年6月、朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)すると、アメリカはこの内戦に介入し、在日米軍を根こそぎ動員した。そのなかで日本の治安維持を口実として、マッカーサーの吉田首相への書簡によって、警察予備隊の創設が指示される。再軍備の開始であった。

 こうした占領政策の転換によって、日本の民主化は途中で流産させられ、日本は「反共の防壁」「極東の工場」としてアメリカの冷戦体制のなかに組み込まれていくことになった。そして、この現実を1951年のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の制定という形で法制化することになるのである。

[山田敬男]

『神田文人著『占領と民主主義』(『昭和の歴史 8』1983・小学館)』『竹前栄治著『GHQ』(岩波新書)』『藤原彰他著『日本現代史』(1986・大月書店)』

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世界大百科事典(旧版)内の対日占領政策の言及

【日本資本主義】より

…労働組合運動は1945年末から急速に拡大,高揚し,46年前半には経営民主化闘争から生産管理・業務管理争議が激増して経営権を脅かした。これに対し占領軍および日本政府は〈違法スト〉弾圧に乗り出した(頂点は1947年二・一ゼネスト禁止)が,それはなお当初からの対日占領政策の枠内にあった。占領政策の転換はここでも48年から明確になり(画期は1948年7月マッカーサー書簡,政令201号),49年にかけて経営合理化,ドッジ・ラインと続くなかで弾圧(とくにレッドパージ)が強化され,労働運動は後退していった。…

※「対日占領政策」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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