日本大百科全書(ニッポニカ) 「原子爆弾投下」の意味・わかりやすい解説
原子爆弾投下
げんしばくだんとうか
太平洋戦争末期の1945年(昭和20)8月6日と9日に、アメリカが行った広島市と長崎市への原子爆弾投下のこと。
[西嶋有厚]
投下の経過
第二次世界大戦中、ドイツの原爆開発を恐れたアメリカは、それに対抗して1942年の「マンハッタン計画」でひそかに原爆開発に着手し、1945年7月16日史上初の原爆実験に成功した。このときドイツはすでに降伏していたが(1945年5月8日)、それが対日投下理由ではなく、その約1年前の1944年9月の米英ハイドパーク協定で、原爆の対日使用がすでに決められていた。そしてポツダム会談中の7月25日、投下命令が出された。投下目標都市(京都、広島、小倉(こくら)、新潟。のち京都、新潟が外され、長崎が追加)への通常の空襲は原爆による破壊効果測定のため禁止(7月3日)されていた。最初の投下予定可能日は8月1日であったが、広島が悪天候のため6日に延び、8月9日の目標地も小倉が曇天のため長崎に変更された。当時原爆はこの2発しかなかったが、3発目の東京投下案もあった。
[西嶋有厚]
投下と終戦
投下後1週間余で日本が降伏したため、原爆で戦争が終わったかのように思われ、また日米当局の同様の判断がそれを助長した。しかしこの判断は真実ではない。当時の日本の指導層のうち、かねてから対米終戦の機を求めていた和平派(重臣、外交官、海軍首脳など)は、原爆投下を絶好の口実として終戦を図ろうとしたが、実権を握っていた陸軍を中心とする主戦派は、それをかたくなに拒否し、最初は原爆投下の事実を否認して、国民には「新型爆弾」とのみ発表、調査で原子爆弾と判明後も、戦争指導上の理由でその公表を拒み、「原子爆弾使用に対する抗議」の発表も差し止めた。これは原爆投下にもかかわらず本土決戦を目ざす主戦派が、原爆の公表による民心の動揺を恐れたからである。
終戦のより重要な要因は1945年8月9日のソ連参戦であった。主戦派の本土決戦計画は、ソ連の中立が絶対不可欠の前提であった。また和平派の国体護持のための対米降伏構想も、前年のソ連軍進攻に伴う東欧諸国の戦前体制の崩壊をみて、その二の舞を避けることに真の狙いがあった。その意味でソ連参戦は、主戦派にも和平派にも決定的打撃であった。ソ連参戦後、9日から10日にかけての深夜の御前会議で対米降伏が決定された。
[西嶋有厚]
投下の目的
投下最高責任者トルーマン米大統領は、原爆投下は戦争を早く終わらせ、人命を救うためやむをえなかった、でなければ戦争は長引き、数十万人の犠牲者が出たであろうと主張した。この考え方は1994年、スミソニアン博物館での原爆展論争を通して、アメリカでは強められた。しかし当時、日本の降伏はすでに時間の問題となっており、しいて原爆を使わずとも対日終戦の可能性は具体的に三つもあった(日本の抗戦能力の喪失、日本側の和平工作とくに近衛文麿(このえふみまろ)元首相のモスクワ派遣交渉、ソ連参戦)。しかしアメリカはこれらの可能性をあえて追求することなく、とくにアメリカの要求によりヤルタ会談(1945年2月)で約束され、8月に予定されていたソ連参戦の直前に、できたばかりの原爆をあえて大急ぎで日本に投下した。しかもその決定は、当時日本攻撃を担当していた陸海空三軍の最高司令官などに諮(はか)ることなく、その意に反してなされたのである(海空軍は、当時、上陸作戦なしの終戦を期待しており、陸軍のマッカーサー元帥は、戦後、原爆投下の事前相談があったらその必要なしと答申したであろうと述べている)。
日本がポツダム宣言を拒否したから原爆を投下したとよくいわれるが、原爆投下命令はポツダム宣言発表の前にすでに出されており、たとえ日本の同宣言黙殺声明(7月28日)がなかったとしても、5日以内に日本が同宣言を受諾しない限り、原爆は日本に投下されるようになっていた。しかもポツダム宣言には受諾期限は示されておらず、さらに原案骨子の天皇制存続保証条項が削除されて発表されたため、国体護持を第一義としていた当時の日本の指導層にとり、同宣言の早期受諾は著しく困難となった。
[西嶋有厚]
投下の国際的背景
このような原爆投下のやり方は、それが最後のやむをえない終戦手段としてなされたのではなく、早期終戦、人命救助とは別の目的があったことを示している。それは当時のアメリカの対ソ政策と関連している。ヤルタ会談後、東欧戦後処理とくにポーランド問題をめぐり、戦後の冷戦につながる米ソの対立はすでに始まっていた。対ソ友好協力政策をとってきたルーズベルト大統領が死に(1945年4月12日)、かわって反ソ的なトルーマンが大統領となったことが、その傾向を助長した。ドイツの降伏は戦時中の米ソ協力の軍事的必要性を後退させていた。また、アメリカはソ連参戦に関するヤルタ協定による、ソ連への満州での一連の特権供与や、ソ連軍の日本占領参加を避けたいと思うようになった。ソ連参戦後に日本が降伏することは、日本の戦後処理をアメリカの自由にできなくなることを予測させ、それを避けるためにもソ連参戦前の対日終戦が望ましく思われるようになった。そのような状況のなかでの原子爆弾の実験の成功は、まさにソ連参戦なしで対日戦を終わらせ、さらに、東欧戦後処理を含めて戦後の世界におけるアメリカの力の優位を保証すると思われた強力な新兵器の登場であったのである。
広島と長崎への原爆投下は、このような大戦末期の微妙に変化しつつあった米ソ関係のなかで、正しく位置づけられる必要がある。
[西嶋有厚]
被爆の実態
1発で優に1都市を壊滅させる破壊力をもつ原爆による被害は、実に恐るべきものであった。爆風、熱線などの並はずれた物理的破壊力はいうまでもなく、とくに放射能による人間破壊のひどさという点で、従来の爆弾とは決定的に異なるまったくの非人道的兵器であった。原爆投下は被爆地を一瞬にして地獄図に変え、数万~十数万の人命を奪い、そのときは生き残った多くの被爆者をも、ひどいケロイド状火傷(やけど)と放射能禍により、吐き気、脱毛、発熱、炎症、出血などの症状でひどく苦しめながら次々と死亡させていった。その死亡者数は、被爆後の混乱と都市壊滅による人口資料の喪失で正確には明らかではないが、さまざまなデータから1950年(昭和25)10月までの原爆による死亡者数は、広島約20万、長崎約14万と推計されている(『広島・長崎の原爆災害』による)。
原爆による被害は、さらに放射能後遺症として貧血、白血病、内臓機能障害、白内障、ケロイド、癌(がん)、全身衰弱などの慢性的症状で被爆者を苦しめ、長期間にわたって次々と死に至らしめ、今日もなお続いている。そのため被爆二世への後遺症の影響が心配されている。被爆者への後遺症は単に肉体的なものにとどまらない。家屋財産の喪失、家庭破壊、生活能力・養護能力の部分的または全面的喪失などによる生活苦、貧困を生み出し、被爆者を経済的にも苦しめ、さらに被爆者であることを理由とする差別(就職、結婚、養子などの拒否)により被爆者は精神的にも苦しめられてきた。そのため「被爆者援護法」制定の運動が進められて、1994年にやっと制定されたが、国家補償の面でなお不十分であり、その改正が求められている。
[西嶋有厚]
被爆の反響
広島、長崎の人類史上未曽有(みぞう)の悲惨な実態が知られるにつれ、それは日本人の心に原爆の恐ろしさと非人道性を深く印象づけた。1954年のビキニ水爆実験によるマグロ漁船の放射能被害を機に、現実の放射能の脅威に、過去の原爆の脅威が呼び起こされ、「ノー・モア・ヒロシマ・ナガサキ」を合いことばに原水爆禁止運動が国民的運動として展開し、以降毎年8月の原爆記念日を中心に原水爆禁止世界大会が開かれて、世界の原水爆禁止運動のセンター的役割を担ってきた。その後、社会主義国の原爆実験をめぐる意見の不一致を機に運動は政治的に分裂したが、1977年、国連NGO(非政府間国際機構)による広島被爆の実相に関する国際シンポジウム開催を機に統一の方向に向きはじめた。このシンポジウムで「ヒバクシャ」という日本語が国際語として使われるようになり、それまで日本以外ではあまり知られていなかった被爆の実態が、世界各地の民衆にも知られるようになった。とくにヨーロッパでは、新型戦域核兵器配備による核戦争の脅威増大に対抗する反核運動の未曽有の展開、高揚の一因ともなり、ヨーロッパをヒロシマにさせてはならないという意味で、「ユーロシマ」という新語がつくりだされた。その意味で被爆の実態が、「三たび許すまじ原爆を」の世界的運動の原点となっている。
[西嶋有厚]
『マーティン・J・シャーウィン著『破滅への道程』(1978・TBSブリタニカ)』▽『荒井信一著『原爆投下への道』(1985・東京大学出版会)』▽『ガー・アルペロヴィッツ著『原爆投下決断の内幕』上下(1995・ポルプ出版)』▽『西嶋有厚著『特論・原子爆弾』(歴史学研究会編『講座世界史8』所収1996・東京大学出版会)』▽『西嶋有厚著『原爆はなぜ投下されたか』(青木文庫)』