古宇利島・古宇利村
こうりじま・ふいむら
古宇利島は運天港の北東方約二キロに位置するほぼ円形の島で、南北約二・一キロ、東西約一・九キロ、面積三・一二平方キロの低島(サンゴ島)。最高点は島の中央部からやや北寄りにあり、標高一〇六・九メートル。郡島(郡村)とも記し、方音ではフイジマあるいはクイジマという。フイ、クイは越えるの意で、海を越えた島と解せるか。北西海岸に中生代の石灰岩(本部層)がわずかに露出するほかは、全島が第四紀の琉球石灰岩で覆われる。島は三段の同心円状の海岸段丘からなり、段丘の上位面が七五―一〇〇メートル、中位面が三五―六〇メートル、下位面が一〇―三〇メートルで、下位ほど幅が狭い。中心的な集落(村内)は島の南岸の下位面から海岸低地上の緩斜面に立地するが、上位面に当たる島の中央部に上原、中位面に相当する島の北西部に下原のいずれも小規模な屋取集落がある。
「海東諸国紀」所載の琉球国之図には「郡島」とみえ、「有人居」とある。「朝鮮・琉球航海記」所載の地図にはHarberts Island(ハーバーツ島)と記載。一八四四年に来琉したフランス人宣教師のフォルカードは八六年運天港を訪れ、当島をHerberts Island(エルベール島)とし、地元ではKouï(クーイ)とよんでいると記している(幕末日仏交流記―フォルカード神父の琉球日記)。「ペリー艦隊日本遠征記」にはkouiとある。なお近世後半に今帰仁間切の地頭代は古宇利親雲上の名が与えられ、地頭代を勤めた家はフイヤーあるいはメーフイヤーの屋号が付けられている。
〔考古〕
島内では貝塚時代前期からグスク時代の遺跡が確認され、島の南側にある集落一帯に形成された貝塚前期―中期の遺跡群を古宇利原遺跡とよんでいる。うち古宇利原A遺跡は前期―中期で、室川式土器を伴う、環状に石を集積した住居跡が発掘されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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