今帰仁(読み)なきじん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「今帰仁」の意味・わかりやすい解説

今帰仁(村)
なきじん

沖縄県国頭郡(くにがみぐん)にある村。沖縄本島北部、本部(もとぶ)半島北東部と古宇利島(こうりじま)を含む。方音ナチジン。村の南側中央部にある乙羽(おっぱ)岳を軸に東西に丘陵が走り、北に向かっては緩やかな傾斜地をなす。古宇利島は琉球(りゅうきゅう)石灰岩からなり、海岸段丘が発達した島。国道505号、主要地方道名護運天(なごうんてん)港線が走る。14世紀の三山分立時代は、北山(ほくざん)王3代(1319~1416)の城下町として栄えた。源為朝(ためとも)伝説のある運天港は天然の良港で、古くから北部の貿易港および避難港であり、薩摩(さつま)軍の琉球上陸港として、またペリー提督の通商交渉に利用された。渡喜仁(ときじん)村落は無禄(むろく)士族がつくった屋取(ヤードイ)集落。1975年(昭和50)の沖縄海洋博覧会後、第一次産業は減少した。今帰仁城跡(国指定史跡、2000年世界遺産に登録)は旧首里(しゅり)城に次ぐ規模の城で、発掘作業が終了し、城壁などを継続的に保存修理している。隣接して歴史文化センターがある。仲原(なかはら)馬場跡は県の史跡、諸志御嶽(しょしうたき)の植物群落は国の天然記念物に指定されている。古宇利島には人類発祥の古宇利島伝説(沖縄版アダムとイブ)や、海神祭ウンジャミ)の古式ゆかしい行事が残っている。面積39.93平方キロメートル、人口8894(2020)。

堂前亮平]

『『今帰仁村史』(1975・今帰仁村)』


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改訂新版 世界大百科事典 「今帰仁」の意味・わかりやすい解説

今帰仁[村] (なきじん)

沖縄県国頭(くにがみ)郡の村。本部(もとぶ)半島北東部と東の古宇利(こうり)島(面積2.95km2)よりなる。人口9257(2010)。北と東は東シナ海に面し,南は名護市で,半島部の南側は乙羽(おつぱ)岳から西に丘陵がのび,海岸沿いに平地が広がる。古宇利島は海岸段丘が発達する。14世紀から15世紀の三山(さんざん)時代には北山(ほくざん)王統が今帰仁城(北山城)にあって沖縄島北部を支配し,当地はその中心地であった。北東部の運天(うんてん)港は北東に古宇利島,南東に屋我地(やがじ)島がある天然の良港で,源為朝が渡来したとの伝説もあり,薩摩の琉球征服時にも薩摩軍が第一歩を印した。第2次世界大戦中は海軍基地があり,現在は貿易港として1万トン級岸壁や近代設備が整っている。主産業は農業でサトウキビを主にし,花卉,野菜,パイナップルを栽培し,肉用牛,豚などの畜産の複合経営も行われている。

 北西部の標高80~100mにある今帰仁城跡は西から東へ高くなり,連郭式の城である。北山王統は今帰仁按司(あじ)に始まるが,最後の攀安知(はんあんち)が中山(ちゆうざん)の尚巴志に滅ぼされたのは1416年ないし22年といわれる。尚巴志は第二子尚忠を今帰仁城に派して北山(国頭郡)を監守させ,以後第二尚氏の1665年まで北山監守が派遣されていた。また沖縄中の門中によって行われる〈今帰仁上り(ぬぶい)〉は祖先の精霊に対する信仰の祭祀行事で,今帰仁城跡周辺の拝所,旧跡などを回って拝む。なお諸志(しよし)御嶽の植物群落(天)は,神域として古くから保護された御嶽林3万m2にアカギ,ムクロジ,リュウキュウガキ,リュウキュウテイカズラ,ホザキカナワラビ,アリモリソウなど167種が知られ,琉球石灰岩地域の植物相を知るうえで貴重である。古宇利島には人類発祥伝説があり,また旧暦7月の盆あけ亥の日に行われる海神(うんじやみ)祭も知られる。
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