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古橋暉皃 ふるはし・てるのり

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朝日日本歴史人物事典の解説

古橋暉皃

没年:明治25.12.24(1892)
生年:文化10.3.23(1827.4.18)
幕末明治期の篤農家。富田高慶,岡田良一郎と共に三篤農ともいわれる。三河国設楽郡稲橋村(愛知県稲武町)の豪農古橋家に生まれる。義教と加乃の次男。世襲名源六郎(6代)。なお諱の暉児は誤記。天保2(1831)年19歳で父に代わって傾いた家政を再建,天保大飢饉(1836)には借金借米をして飢民を救済した。同9年稲橋村庄屋となり,11年には11カ村の総代となる。村の名望家として村民の救済,農村の自力更生に尽力した。文久3(1863)年,宮司羽田野敬雄を介して国学の平田銕胤に入門,訪れる勤皇の志士を援助し,そのひとり佐藤清臣は,のちに暉皃が設立した郷学明月清風校の校長になっている。維新後,三河県庁,伊那県庁に出仕したが,明治5(1872)年には退職し,家督も子の義真に譲る。以後,村の殖産興業に尽力し,林業をはじめ茶,養蚕,煙草,産馬改良などの事業に取り組んだ。同11年には近郷の農民有志と農談会を結成,16年には官有林の払下げを受けて植樹を呼びかけ,報徳運動を導入して稲橋村の経済の基礎を確立した。<著作>『報国捷径』『経済之百年』『富国の種まき

(林昌弘)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

古橋暉皃
ふるはしてるのり
(1813―1892)

幕末・明治前期の三河国設楽(したら)郡稲橋(いなはし)村(愛知県豊田市稲武(いなぶ)地区)の篤農家。山間部の豪農の家に生まれ、源六郎(6代)と称した。家運が傾きかけた1831年(天保2)に経営の転換を図り、それまでの酒造・金融業より、みそ・しょうゆと農業に重点を移して、再建に成功した。1836年の飢饉(ききん)と農民一揆(いっき)に際して、地元農民の生活の維持に努めた。安政(あんせい)開港後、平田篤胤(あつたね)没後の門人となり、在村型の勤皇家として活躍し、明治維新後、新政府の地方官に出仕したこともある。1872年(明治5)赤報隊員だった佐藤清臣(きよおみ)(1833―1910)の協力を得て、明月清風校(めいげつせいふうこう)という小学校を開設した。明治政府の殖産興業政策に呼応して、山林の育成、官有林の払下げ、農談会の創設などに努力し、報徳社運動の導入にも功績をあげている。なお次男の古橋義真(よしざね)(1850―1910)も明治時代の篤農家として知られている。[長谷川伸三]
『芳賀登著『明治維新の精神構造』(1971・雄山閣出版) ▽芳賀登編『豪農古橋家の研究』(1979・雄山閣出版)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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