日本大百科全書(ニッポニカ) 「古橋暉皃」の意味・わかりやすい解説
古橋暉皃
ふるはしてるのり
(1813―1892)
幕末・明治前期の三河国設楽(したら)郡稲橋(いなはし)村(愛知県豊田市稲武(いなぶ)地区)の篤農家。山間部の豪農の家に生まれ、源六郎(6代)と称した。家運が傾きかけた1831年(天保2)に経営の転換を図り、それまでの酒造・金融業より、みそ・しょうゆと農業に重点を移して、再建に成功した。1836年の飢饉(ききん)と農民一揆(いっき)に際して、地元農民の生活の維持に努めた。安政(あんせい)開港後、平田篤胤(あつたね)没後の門人となり、在村型の勤皇家として活躍し、明治維新後、新政府の地方官に出仕したこともある。1872年(明治5)赤報隊員だった佐藤清臣(きよおみ)(1833―1910)の協力を得て、明月清風校(めいげつせいふうこう)という小学校を開設した。明治政府の殖産興業政策に呼応して、山林の育成、官有林の払下げ、農談会の創設などに努力し、報徳社運動の導入にも功績をあげている。なお次男の古橋義真(よしざね)(1850―1910)も明治時代の篤農家として知られている。
[長谷川伸三]
『芳賀登著『明治維新の精神構造』(1971・雄山閣出版)』▽『芳賀登編『豪農古橋家の研究』(1979・雄山閣出版)』