日本大百科全書(ニッポニカ) 「殖産興業政策」の意味・わかりやすい解説
殖産興業政策
しょくさんこうぎょうせいさく
1870年代から80年代にかけて、明治新政府により推進された資本主義の保護・育成策。明治維新を契機に成立した明治国家は、その経済的基盤を固めるため、富国強兵、殖産興業を政策目標に掲げて、洋式機械制大工業の移植を中心とする資本制生産様式の採用に踏み切り、急速な資本主義化を促進することになった。殖産興業政策は、工部省→内務省→農商務省へと変転する中央勧業機構のもとに、欧米先進諸国から進んだ生産技術と経済制度を導入し、財政・金融・貿易・教育などの諸分野とも関連させながら、工鉱業の発展、農牧業の育成、鉄道の建設、貿易の進展、技術者の養成その他について、政府の指導下に、資本制生産の体系をつくりだそうとした。しかし、当時、新政府は、その一部が外国資本の管理下に入りつつあった旧幕府・諸藩の軍事施設や洋式工場を官収し、外国勢力や外国資本の侵入を排除して、その利権を回収する必要があった。また、幕末以降、入超が続く貿易において、輸入阻止の目的から、蚕糸(さんし)・製茶業を中心に民間産業を育成する必要もあった。こうして、当時の殖産興業政策は、利権回収と民業振興を支柱に進められた。以上の基調を背景に、国家権力による資本制生産様式の具体化は、第一に工部省(陸・海軍省も含む)中心の移植産業部門における工鉱業と軍事工業の展開、第二に内務省→農商務省中心の在来産業(農業と農産加工)部門における再編、という二つの経路をもって、相互に関連しつつ進行する。このような「上から」の資本主義の育成策は、1880年代を中心に、官営事業(官営工場と官営軍事工場、鉱山・鉄道の経営など)を生み出したが、工部省所管の官営工場を中心に赤字損失が重なった。その結果、80年(明治13)布告の工場払下概則をきっかけに、官業払下げが実現する。
このように、政府の誘導による殖産興業政策は、全体として成功したとは評価できない。しかし、民間払下げからも除外された軍事工業は、松方(正義(まさよし))財政下での軍備拡張政策を背景に、産業発展の基軸を構成するキー産業として展開し、以後の日本資本主義の軍事的性格を刻印するという意味で重要である。
[石塚裕道]
『古島敏雄著『体系日本史叢書12 産業史Ⅲ』(1966・山川出版社)』▽『小山弘健著『日本軍事工業の史的分析』(1972・御茶の水書房)』▽『石塚裕道著『日本資本主義成立史研究――明治国家と殖産興業政策』(1973・吉川弘文館)』