吉出村
よしでむら
[現在地名]遊佐町吉出
六日町村の東にあり、月光川を境に大楯村。上吉出・下吉出・釈迦田・奥屋の字名がある。鳥海山西側山麓に位置するため遺跡が多く、現在の吉出地区には旧石器時代の金俣A遺跡、縄文時代の同B遺跡、古代の宮山坂墳墓群、鎌倉・室町時代の滝の上経塚など二六の遺跡がある。中道から「官」「冨」と記した墨書土器が出土している。応安三年(一三七〇)佐々木綱利が日陣の日蓮宗布教に同行してこの地を開墾し、宅地内に八幡宮を勧請。三ノ俣に菩提寺を建立し日陣を開山としたが、この寺はのち江地村に移り玉龍寺となった(「書付」佐々木文書)。庄内と由利郡(現秋田県)の交通は、鳥海山麓の桑ノ森道を使っていたが、戦国時代に武藤義氏は治安が悪いためこの道を閉鎖し、その仕置を上のほうは当村・上野沢村・杉沢村の三ヵ村にゆだねた(「山仕置書物」菅原文書)。
吉出村
よしいでむら
[現在地名]稲垣村吉出
田圃を隔てて北は沼館村、東は岩木川の堤防沿いに発達した蘆部岡村(現木造町)、南は出崎村(現木造町)、西は沖善津村に接する。
元禄五年(一六九二)作製の広須新田総絵図に村名が記載されているという(西津軽郡史)。享保一二年(一七二七)には広須組に属し、「下六吉崎村」とみえ川通三二ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。元文元年(一七三六)の検地帳によれば、田畑屋敷合せて四〇町八反六畝五歩、村高は二七六・四六九石であった。うち田方は三七町九反四畝一歩で二六九・五七四石、上田から下々田まで設定され、下田が一八町六反三畝一〇歩、一三〇・四三三石とあり、畑方は二町九反二畝四歩で六・八九五石、下畑と下々畑のみで、下々畑が一町七反六畝四歩、一・七六三石とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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