吉村虎太郎(読み)よしむらとらたろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉村虎太郎」の意味・わかりやすい解説

吉村虎太郎
よしむらとらたろう
(1837―1863)

幕末土佐出身の尊攘(そんじょう)志士。諱(いみな)は重郷(しげさと)。寅太郎(とらたろう)と書かれることもある。高岡郡津野山郷芳生野(よしうの)村(現高知県津野町)の庄屋(しょうや)の家に生まれ、若年のころより各地の庄屋を歴任し、1857年(安政4)には津野山郷檮原(ゆすはら)村(現檮原町)大庄屋(おおじょうや)になる。この間、間崎哲馬(まさきてつま)らに師事。その後武市瑞山(たけちずいざん)が勤王党(きんのうとう)を組織するやこれに参加した。津野山郷からは、虎太郎のほかに贈位を受けた者だけで那須信吾(なすしんご)、上岡膽治(かみおかたんじ)ら7名の尊攘志士を出している。土佐勤王党のなかではもっとも急進的な存在で、1862年(文久2)3月脱藩し、寺田屋事件に関係し捕らえられ土佐に送還されて禁獄。ついで翌年2月出獄後、再度上京して天誅組(てんちゅうぐみ)を組織する。同年8月大和(やまと)五條(ごじょう)に挙兵したが事破れ、9月27日鷲家口(わしかぐち)の戦いで戦死した。年27。小柄で、色白な丸顔、かつ愛嬌者(あいきょうもの)であったという。

[池田敬正]

『平尾道雄著『吉村虎太郎』(1941・大道書房)』

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朝日日本歴史人物事典 「吉村虎太郎」の解説

吉村虎太郎

没年:文久3.9.27(1863.11.8)
生年:天保8.4.18(1837.5.22)
幕末の天誅組幹部。諱は重郷,号は黄庵。父重雄,母雪の長男。土佐国(高知県)高岡郡の庄屋として治績を挙げた。土佐勤王党結成に参画。文久2(1862)年2月長州,筑前の政情を視察,この地方の同志決起の可能性が高いと判断,高知に戻り首領武市瑞山に同時決起を促したが容れられず,3月,長州に脱走,京坂に転じて伏見寺田屋の変に遭遇,藩に拘束されたが,12月無罪放免。翌3年,再び入京,攘夷祈願の賀茂社行幸で意気上がった。しかし,幕府に攘夷の意志は薄弱で尊攘派の憤激過熱,議論輻輳するなか,8月13日,大和行幸・攘夷親征の詔勅が煥発。虎太郎,藤本鉄石らは前侍従中山忠光を擁し同志約40名と親征=討幕の先鋒たらんと大和五条代官所を襲撃,天誅組と号し同志の結集を四方に運動したが,同月18日の公武合体派のクーデタで状況が急変し,諸藩連合軍に包囲され,9月27日,鷲家口で壮烈に戦死した。<参考文献>平尾道雄『天誅組烈士・吉村虎太郎』

(福地惇)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉村虎太郎」の解説

吉村虎太郎 よしむら-とらたろう

1837-1863 幕末の尊攘(そんじょう)運動家。
天保(てんぽう)8年4月18日生まれ。土佐(高知県)高岡郡津野山郷の庄屋(しょうや)の長男。文久元年武市瑞山(たけち-ずいざん)の土佐勤王党に参加。翌年寺田屋事件に関係して投獄される。3年中山忠光(ただみつ)を擁して天誅(てんちゅう)組を組織し討幕の兵をあげ,同年9月27日大和(奈良県)鷲家(わしか)口で戦死。27歳。名は重郷。通称は寅太郎ともかく。
【格言など】辛棒せい,辛棒せい,辛棒を押し通したらば世はかわる(敗走する農民兵をはげまして)

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