武市瑞山(読み)タケチズイザン

デジタル大辞泉 「武市瑞山」の意味・読み・例文・類語

たけち‐ずいざん【武市瑞山】

[1829~1865]幕末尊攘派志士土佐の人。通称、半平太。郷士の子で、土佐勤王党組織吉田東洋らの佐幕開国論に対抗東洋を暗殺し、一時藩論を尊攘に導いたが、藩主山内容堂に入れられず、切腹を命じられた。

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精選版 日本国語大辞典 「武市瑞山」の意味・読み・例文・類語

たけち‐ずいざん【武市瑞山】

  1. 幕末の志士。名は小楯。通称、半平太。瑞山は号。土佐国(高知県)の人。一藩勤王を目標として、文久元年(一八六一)土佐勤王党を組織。藩の主流吉田東洋らの公武合体論を退け、尊攘論を説く。同三年の政変で藩論が保守に変わると、切腹を命じられた。文政一二~慶応元年(一八二九‐六五

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朝日日本歴史人物事典 「武市瑞山」の解説

武市瑞山

没年:慶応1.閏5.11(1865.7.3)
生年:文政12.9.27(1829.10.24)
幕末の土佐(高知)藩の剣客,尊王家。通称半平太,諱は小楯。瑞山は号。土佐国長岡郡吹井(高知市)の郷士白札格武市正恒の長男。剣術修行に励み,国学,書画を嗜んだ。妻富子。嘉永3(1850)年に城下新町に挙家移住し,安政1(1854)年叔父島村寿之助と槍剣道場を開業,藩内東部に剣道出張指南に赴く。3年江戸に出て桃井春蔵に入門,塾頭を務める。帰郷後,道場の経営に尽力。安政の大獄(1859),桜田門外の変(1860)と時勢が動き始めると,藩から剣術修行の許可を得て門弟2名を従え北九州地方を巡遊,情勢を探索。文久1(1861)年文武修行のため再び江戸に上った。同郷の大石弥太郎から勤王諸藩の有志を紹介されて交流,土佐藩勤王派の結集を決意した。江戸で大石,島村衛吉,池内蔵太,河野敏鎌らと結盟,同年帰国,200名余の同志を糾合して土佐勤王党を結成した。時に山内容堂(豊信)の信任する参政吉田東洋が公武合体論の立場で藩政を指導しており,瑞山は挙藩勤王論を吉田に進言したが容れられず,勤皇諸藩の京都結集に遅れることを恐れた末,吉田の藩政改革に不満を持つ門閥派と結託し,文久2年4月,吉田東洋を暗殺。藩主山内豊範を擁して同志らと入京。攘夷督促の副勅使姉小路公知の雑掌となり名を柳川左門と称して江戸下向に随行した。このころが瑞山と勤王党の得意絶頂の時期であった。3年4月,藩命により帰国,このころより腹臣吉田東洋暗殺を遺恨する容堂の勤王党弾圧が始まり,京都の8月政変を契機に弾圧は強化され,9月瑞山も投獄され,慶応1(1865)年5月,切腹を命じられた。天皇と聞いただけでも涙したという真の勤皇主義者だった。<参考文献>日本史籍協会『武市瑞山関係文書』全2巻,瑞山会編『維新土佐勤王史』

(福地惇)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「武市瑞山」の意味・わかりやすい解説

武市瑞山
たけちずいざん
(1829―1865)

幕末期土佐尊攘(そんじょう)派の指導者。名は小楯(こたて)、通称は半平太(はんぺいた)。文政(ぶんせい)12年9月27日、豪農的経営をもつ郷士の家に生まれたが、高知城下に出て剣術の道場を開く。二度にわたり江戸に赴くが、この間、諸国の尊攘派志士と交流し、1861年(文久1)8月、江戸滞在中の有志を集めて勤王(きんのう)党を結成。翌月帰国し、郷士、足軽、庄屋(しょうや)層を中心に、全藩にわたり200人を超える組織に拡大する。この力を背景に土佐の藩論を変えようとして参政吉田東洋(とうよう)と対立し、ついに1862年4月これを暗殺させた。その結果、藩論を尊王攘夷(じょうい)に導き、引き続き藩主の上京に随従した。さらに攘夷の勅使姉小路公知(あねこうじきんとも)に従って江戸に下向するなど、華やかな活躍が続く。その眉目(びもく)秀麗な顔だちは月形(つきがた)半平太のモデルにふさわしい。しかし、翌年尊攘派弾圧のなかで投獄され、拷問に屈せず闘ったが、ついに1865年(慶応1)閏(うるう)5月切腹を命ぜられる。絵をよくし、獄中の自画像などは有名。「天皇好き」とあだ名されていたという。高知市仁井田(にいだ)に、旧宅、墓、瑞山神社がある。

[池田敬正]

『瑞山会編『維新土佐勤皇史』(1912・冨山房)』『入交好脩著『武市半平太』(中公新書)』

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百科事典マイペディア 「武市瑞山」の意味・わかりやすい解説

武市瑞山【たけちずいざん】

幕末尊攘派の志士。土佐(とさ)高知藩郷士。名は小楯(こたて)。通称半平太(はんぺいた)。安政の大獄に憤り,1861年藩内尊攘派の有志と土佐勤王党を結成。勤王党員らは当時藩政を主導していた開明的な吉田東洋を暗殺し,瑞山は一時藩論を尊攘に導いた。しかし文久3年8月18日の政変以後,藩論は保守に傾き,弾圧されて切腹。
→関連項目坂本竜馬田中光顕中岡慎太郎

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改訂新版 世界大百科事典 「武市瑞山」の意味・わかりやすい解説

武市瑞山 (たけちずいざん)
生没年:1829-65(文政12-慶応1)

幕末の尊攘派志士。通称は半平太,名は小楯。瑞山は号。土佐国長岡郡仁井田郷吹井村の郷士武市半右衛門正恒の長男。若いころから剣で知られたが,1861年(文久1)の江戸遊学中交流した久坂玄瑞らと率兵上京を計画し,土佐勤王党を結成した。帰国後,全藩にまたがる草莽尊攘派を糾合し,当時藩政を主導していた開明的な吉田東洋を暗殺させ,土佐藩政に影響力をもつようになった。その後,京都でも尊攘運動を指導したが,文久3年8月18日の政変後捕らえられ,勤王党弾圧の下で切腹を命ぜられた。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「武市瑞山」の解説

武市瑞山 たけち-ずいざん

1829-1865 幕末の武士。
文政12年9月27日生まれ。土佐高知藩士。郷士の家の長男。江戸で尊攘(そんじょう)派とまじわり,土佐勤王党を結成。文久2年公武合体派の参政吉田東洋を党員に暗殺させ,一時藩政をにぎる。前藩主山内豊信(やまうち-とよしげ)の勤王党弾圧により投獄され,慶応元年閏(うるう)5月11日獄中で切腹。37歳。名は小楯。通称は半平太。別号に吹山など。
【格言など】幽囚何をか恥ずべし,只(ただ)赤心の明らかなる有り

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「武市瑞山」の解説

武市瑞山
たけちずいざん

1829.9.27~65.閏5.11

幕末期の志士。土佐国高知藩郷士。幼名半平太。諱は小楯。剣道にすぐれ江戸桃井道場の塾頭を勤める。萩・鹿児島両藩の尊攘派と連合を画策した。土佐に帰って下士・郷士・村役人を主体にした土佐勤王党を結成し,首領となる。吉田東洋を中心とする公武合体派と対立し,藩政改革を企図,1862年(文久2)東洋を暗殺して藩政を掌握した。63年8月には藩論が再び公武合体論に傾いて捕らえられ,65年(慶応元)切腹を命じられて自刃。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「武市瑞山」の意味・わかりやすい解説

武市瑞山
たけちずいざん

[生]文政12(1829).9.27. 土佐
[没]慶応1(1865).閏5.11. 土佐
幕末の尊攘派志士。名は小楯。通称は半平太。土佐藩郷士の子に生れ,安政3 (1856) 年江戸に出て尊王派志士と交遊。文久1 (61) 年郷里で土佐勤王党を組織し,坂本龍馬ら下士層を集めて攘夷論を主張し,上士層と対立,藩政を動かしたが,同3年藩論が公武合体に変り,切腹を命じられた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「武市瑞山」の解説

武市瑞山
たけちずいざん

1829〜65
幕末の尊攘派志士
通称半平太。土佐藩郷士出身。1861年土佐勤王党を組織し,吉田東洋ら藩首脳の公武合体派と対立,'62年東洋を暗殺し藩論を「尊王攘夷」に導いた。八月十八日の政変('63)以後の尊王攘夷運動の後退で弾圧され,'65年投獄切腹を命ぜられ自刃。

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367日誕生日大事典 「武市瑞山」の解説

武市瑞山 (たけちずいざん)

生年月日:1829年9月27日
江戸時代末期の土佐藩の剣術家;尊王家
1865年没

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