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(福地惇)
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幕末期土佐尊攘(そんじょう)派の指導者。名は小楯(こたて)、通称は半平太(はんぺいた)。文政(ぶんせい)12年9月27日、豪農的経営をもつ郷士の家に生まれたが、高知城下に出て剣術の道場を開く。二度にわたり江戸に赴くが、この間、諸国の尊攘派志士と交流し、1861年(文久1)8月、江戸滞在中の有志を集めて勤王(きんのう)党を結成。翌月帰国し、郷士、足軽、庄屋(しょうや)層を中心に、全藩にわたり200人を超える組織に拡大する。この力を背景に土佐の藩論を変えようとして参政吉田東洋(とうよう)と対立し、ついに1862年4月これを暗殺させた。その結果、藩論を尊王攘夷(じょうい)に導き、引き続き藩主の上京に随従した。さらに攘夷の勅使姉小路公知(あねこうじきんとも)に従って江戸に下向するなど、華やかな活躍が続く。その眉目(びもく)秀麗な顔だちは月形(つきがた)半平太のモデルにふさわしい。しかし、翌年尊攘派弾圧のなかで投獄され、拷問に屈せず闘ったが、ついに1865年(慶応1)閏(うるう)5月切腹を命ぜられる。絵をよくし、獄中の自画像などは有名。「天皇好き」とあだ名されていたという。高知市仁井田(にいだ)に、旧宅、墓、瑞山神社がある。
[池田敬正]
『瑞山会編『維新土佐勤皇史』(1912・冨山房)』▽『入交好脩著『武市半平太』(中公新書)』
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幕末の尊攘派志士。通称は半平太,名は小楯。瑞山は号。土佐国長岡郡仁井田郷吹井村の郷士武市半右衛門正恒の長男。若いころから剣で知られたが,1861年(文久1)の江戸遊学中交流した久坂玄瑞らと率兵上京を計画し,土佐勤王党を結成した。帰国後,全藩にまたがる草莽尊攘派を糾合し,当時藩政を主導していた開明的な吉田東洋を暗殺させ,土佐藩政に影響力をもつようになった。その後,京都でも尊攘運動を指導したが,文久3年8月18日の政変後捕らえられ,勤王党弾圧の下で切腹を命ぜられた。
執筆者:池田 敬正
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1829.9.27~65.閏5.11
幕末期の志士。土佐国高知藩郷士。幼名半平太。諱は小楯。剣道にすぐれ江戸桃井道場の塾頭を勤める。萩・鹿児島両藩の尊攘派と連合を画策した。土佐に帰って下士・郷士・村役人を主体にした土佐勤王党を結成し,首領となる。吉田東洋を中心とする公武合体派と対立し,藩政改革を企図,1862年(文久2)東洋を暗殺して藩政を掌握した。63年8月には藩論が再び公武合体論に傾いて捕らえられ,65年(慶応元)切腹を命じられて自刃。
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