日本大百科全書(ニッポニカ) 「天誅組の変」の意味・わかりやすい解説
天誅組の変
てんちゅうぐみのへん
大和(やまと)(奈良県)における尊王攘夷(そんのうじょうい)激派の挙兵事件。1863年(文久3)は攘夷の実行をめぐって、尊王攘夷派がもっとも強力に動いて政局に影響を与えた年であった。こうしたなかで久留米(くるめ)出身の真木和泉(まきいずみ)らのたてた攘夷親征計画を受けて、朝議は8月13日に大和行幸を決定した。これを機に土佐出身の吉村虎太郎(とらたろう)と土佐、因幡(いなば)、久留米などの脱藩士が中心となり、元侍従中山忠光(ただみつ)を擁して天誅組(天忠組ともいう)を結成し、大和挙兵を謀った。一行は8月14日に京都を出発し、大坂、堺(さかい)、河内(かわち)を経て大和に向かい、17日に五条代官所を襲い、代官鈴木源内以下5名を殺害して首を梟(きょう)した。翌18日には主将中山忠光、総裁藤本鉄石(てっせき)(備前(びぜん))・松本奎堂(けいどう)(三河)・吉村虎太郎などの諸役を定め、近在の村役人を集めて代官所支配地の朝廷直領化と祝儀として今年分の年貢半減を布告した。また農民には苗字(みょうじ)帯刀御免、五石二人扶持(ぶち)給与を唱えて参加を求めた。しかし18日の京都政変の情報が伝えられたので、急いで十津川郷士(とつかわごうし)の糾合に努め、26日には募ったほぼ1000人の郷士を率いて高取(たかとり)城を攻撃したが、敗れて十津川郷へと引き返した。こののち追討諸藩兵と戦闘を繰り返すが、9月16日には頼みとした十津川郷士の離反にあって総崩れとなり、退却の途中吉野山中鷲家口(わしかぐち)において諸藩兵に敗れて壊滅した。尊王攘夷激派の挙兵のうちで1か月以上も戦闘体制を維持した点がとくに注目される。
[高木俊輔]