天誅組(読み)テンチュウグミ

デジタル大辞泉 「天誅組」の意味・読み・例文・類語

てんちゅう‐ぐみ【天誅組/天忠組】

江戸末期、吉村寅太郎松本奎堂けいどうらが結成した尊王倒幕の急進派。文久3年(1863)元侍従中山忠光を擁して大和五條で挙兵したが、朝廷政変により政情は一変し、追討の諸藩兵に敗れて壊滅

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改訂新版 世界大百科事典 「天誅組」の意味・わかりやすい解説

天誅組 (てんちゅうぐみ)

1863年(文久3)8月に大和で挙兵した尊攘激派グループ。この年中央政局を動かした尊攘派のうち,真木和泉らのたてた攘夷親征計画により,8月13日に孝明天皇大和行幸の詔が出された。これを機に大和の天領占拠をめざして,土佐の吉村寅太郎備前藤本鉄石,三河の松本奎堂(けいどう)らを中心とし,公卿中山忠光を擁して結成されたのが天誅組である。8月14日に京都を出て,大坂と河内を経て大和に入り,17日に五条代官所を襲撃して代官鈴木源内を殺害し,代官所支配地の朝廷直領化,本年の年貢半減などを布告した。はじめ土佐,筑後久留米,鳥取などの脱藩士が多かったが,河内の庄屋層が加わり,京都政変(8月18日)が伝えられると,十津川郷士の大量動員をはかった。26日めざす高取城攻撃に失敗すると十津川郷士の離反が相つぎ,さらに諸藩兵の追討を受けて敗走をつづけ,9月24日大和吉野郡鷲家口の激戦で多数の犠牲者を出して壊滅した。
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百科事典マイペディア 「天誅組」の意味・わかりやすい解説

天誅組【てんちゅうぐみ】

幕末,吉村寅太郎・松本圭堂らが,土佐藩鳥取藩島原藩刈谷藩久留米藩などの脱藩武士を中心に,倒幕を目的に結成した尊攘激派。天誅組の称は結成時のものではなく,同志らの記録に天忠組と記したものもある。〈天誅〉は当時京都で続発した尊攘急進派による組織的テロスローガン。1863年8月17日の大和五条代官所襲撃時の浪士約50人。その後,大和十津川(とつかわ)郷士約1000人が参加。→十津川の変
→関連項目生野の変十津川[村]中山忠光文久3年8月18日の政変

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世界大百科事典(旧版)内の天誅組の言及

【十津川郷士】より

…早くから有志の郷士は尊王攘夷を唱えて国事に奔走し,1863年(文久3)4月に朝廷の直轄地へ編入を願い出て許され,国事参政支配地となる一方で,郷士は禁中守衛のため上洛した。同年8月に大和で挙兵した中山忠光らの求めに応じて天誅組に加わるが,8月26日の高取城攻めで総崩れとなった。9月に入り,朝廷から忠光ら天誅組追討の命令が下ると,9月15日に天誅組と分離して忠光らに対して十津川からの退去を求めた。…

【中山忠光】より

…侍従として祐宮(明治天皇)に仕えたが,奔放な性格から直接尊攘運動に参画し,1863年(文久3)3月,外国船打払計画に応じて長州に赴く。しかし同年8月,大和行幸に呼応しようとした天誅組の首領に推され,大和五条に挙兵した。敗北したあと長州に逃れたが,翌年になって第1次長州征伐後,藩内恭順派により暗殺された。…

【藤本鉄石】より

…養父の死後1840年(天保11)脱藩して上京,諸国を遊歴後伏見に私塾を開く。大老井伊直弼の安政条約調印に憤激し尊攘激派となり,63年(文久3)8月の天誅組大和挙兵には推されて総裁の一人となるが,8月18日の政変により諸藩の討伐を受けることになり,敗れて鷲家口で戦死した。【高木 俊輔】。…

【松本奎堂】より

…翌年には京都へ移り,藤本鉄石,吉村寅太郎らと交わる。63年8月藤本,吉村らと天誅組を組織して総裁の一人となり大和に挙兵するが,8月18日の政変後に諸藩兵の攻撃を受け,鷲家口の戦で戦死した。【高木 俊輔】。…

※「天誅組」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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