吉枝名(読み)よしえだみよう

日本歴史地名大系 「吉枝名」の解説

吉枝名
よしえだみよう

薩摩国建久図田帳によれば、高城たき郡の公領一四二町(没官御領・地頭千葉介)のうちに吉枝一九町があり、名主は在庁師高。また東郷とうごう別符五三町二反内の公領四二町七反(没官御領、地頭千葉介)のうちに島津庄寄郡の吉枝七町が記され、名主は同じく在庁師高である。師高は本姓伴氏、薩摩国衙の権掾で、武光氏の祖となった。なお建久四年(一一九三)の薩摩国諸郡注文(宮之城記)に、高城郡のうちの名として吉枝名があげられている。承久三年(一二二一)八月二一日の薩摩国庁下文(旧記雑録)に八幡新田宮放生会の雑事を負担する高城郷内東郷三間四名のうちに吉枝があげられている。弘安七年(一二八四)一一月日の天満宮・国分寺恒例神事次第(国分文書)では、正月一日の天満宮朔幣御供ならびに十七社御供は庁役で、饗膳は高城郡内吉枝名役であった。師高の孫師永の代に、師永とその兄弟高重との間で相論があり、高重が師永に代わり吉枝名主職に補任されたらしい。宝治合戦後高城郡などに地頭として入部した渋谷氏一族の吉枝名地頭渋谷重秀(高城氏祖)と、雑掌左近将監資通・前名主師永との間で吉枝名の下地をめぐる相論があった。建長四年(一二五二)地頭は当名下地は地頭の支配下にあると主張、雑掌資通は当名は弁済使名分であるので領家の支配下にあると主張した。六月三〇日幕府は資通方の証拠を不確実として吉枝名の下地所務は領家雑掌・地頭の両者で行うこととし、名主職は相伝の由緒どおり師永に付けられるべきところ、地頭が謀書を行ったと偽りの主張をした科によりその所職を改易し、他の穏便の輩を任ずることと裁許した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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