吉田経房(読み)よしだ・つねふさ

朝日日本歴史人物事典 「吉田経房」の解説

吉田経房

没年:正治2.閏2.11(1200.3.27)
生年:康治1(1142)
平安末・鎌倉初期の公卿。藤原光房と藤原俊忠の娘の子。洛東吉田に別邸を営み,吉田と号した。勧修寺流藤原氏出身の実務官僚で,蔵人,検非違使,弁官の三事を兼帯し,また上西門院判官代,建春門院判官代,後白河院別当,高倉院別当などを務め,後白河院政・平氏政権下に順調に昇進,蔵人頭を経て参議となる。元暦1(1184)年中納言,翌年大宰権帥を兼ねるが,このころより鎌倉の源頼朝との関係が親密となる。『吾妻鏡』では経房の任中納言は頼朝の推挙によるものとし,文治1(1185)年の廟堂粛正の際には議奏公卿に加えられている。そして頼朝から朝廷への奏聞事項や京都から鎌倉への院宣の伝達は,すべて経房を通じてなされるようになる。激動の源平内乱期にあって,経房が常に政局中枢に参じ重んじられたのは,やはりその実務の手腕見識によるところが大きいであろう。『平家物語』では経房の官途について「人をば越え給へども,人には越えられ給はず」と述べ,当時の評価も「貞潔」「廉直」「天下古老」「末代之重臣」などと高い。その他七条院院司,斎院別当なども務め,建久9(1198)年には源通親の推挙で権大納言となる。勧修寺流長者としては,吉田の地に浄蓮華院を草創,これは吉田堂とも呼ばれ一流諸家の菩提寺となっている。その日記『吉記』は当時の政治情勢を知る重要史料であり,故実にも詳しい。和歌もよくし,『千載和歌集』などに入集している。法名は経蓮。

(奥田環)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉田経房」の意味・わかりやすい解説

吉田経房
よしだつねふさ

[生]康治2(1143)
[没]正治2(1200).閏2.11.
平安時代末期~鎌倉時代初期の廷臣。光房の子。左大弁,参議,民部卿,中納言などを経て,建久9 (1198) 年大納言となった。源頼朝と親交があり,朝議を司る議奏公卿の一員に指名された。日記『吉記』がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「吉田経房」の意味・わかりやすい解説

吉田経房 (よしだつねふさ)

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉田経房」の解説

吉田経房 よしだ-つねふさ

藤原経房(ふじわらの-つねふさ)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の吉田経房の言及

【関東申次】より

…いかなる人物がその任にあたり,いかなる活動を示すかは,その時々の朝廷と幕府との政治的な力関係によって左右された。たとえば源頼朝の時代には,もっぱら院伝奏の吉田経房が朝幕間の単なる取次ぎにあたり,承久の乱後は,重要事項については将軍頼経の父である九条道家が交渉にあたり,小事は院司が取り次ぐといったぐあいであった。やがて1246年(寛元4)幕府が西園寺実氏を関東申次に指名したことによってその制度が確立し,以後関東申次の地位は実氏―実兼―公衡―実兼(再任)―実衡―公宗と西園寺家の正嫡に受け継がれていったが,このことは鎌倉時代中・後期における西園寺家の隆盛をもたらすことになった。…

【藤原経房】より

…平安末~鎌倉初期の公卿。権右中弁藤原光房の男。その居所により吉田を称した。1150年(久安6)摂関家の家司から六位蔵人に出身し,伊豆,安房の守を歴任,ついで蔵人,左衛門権佐,左少弁を兼帯し,さらに権右中弁,右中弁,内蔵頭,左中弁,蔵人頭,右大弁を経て,81年(養和1)参議に昇り,左大弁を兼ねた。この官歴は経房が有能な実務官僚であったことをよく物語っており,その後も累進して正二位権大納言に至った。その間,後白河上皇の信任も厚く,さらに鎌倉に幕府を開いた源頼朝も経房を深く信頼して朝幕間の斡旋を委任し,議奏公卿に推挙した。…

※「吉田経房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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