改訂新版 世界大百科事典 「遼金美術」の意味・わかりやすい解説
遼金美術 (りょうきんびじゅつ)
Liáo Jīn měi shù
中国の東北地方からモンゴルにいた遊牧民,契丹族は,916年(後梁の貞明2)耶律阿保機(太祖)が諸部族を統合し,皇帝と称した。936年(天顕11・後晋の天福1)太宗(耶律徳光)は中原の擾乱(じようらん)に乗じて後晋の成立を援助し,燕雲十六州を割譲させたが,後晋の離反に怒った太宗は946年(会同9・後晋の開運3)首都の汴京(べんけい)(河南省開封)を陥れて後晋を滅ぼした。翌947年(大同1・後漢の天福12)国号を遼と改めた太宗は,後晋の方技百工・図籍などをことごとく上京に送り,北帰した。これより契丹族の文化は中国化の傾斜を強めた。
契丹族は元来遊牧民であったから,テント生活を主としたが,太祖以来略奪した漢人を定地農耕させるために,城郭を築き,また918年(神冊3)には漢人を版築使として林東(内モンゴル自治区巴林左旗)に上都を築いた。これより契丹に中国建築が導入された。1004年(統和22・宋の景徳1)北宋との間に澶淵(せんえん)の盟が成立すると,聖宗(耶律隆緒)は中京を造営し,これより遼は全盛時代を迎えた。遼代の建築は,このような経緯により,おおよそ唐・宋の手法を倣ったものであった。代表的な遺構として,河北省薊(けい)県の独楽寺観音閣(984),遼寧省義県の奉国寺大雄殿(1020ころ),河北省宝坻県の下華厳寺薄伽経蔵(1038),山西省応県の仏宮寺木塔(1056)等がある。これらに安置される彫刻も,中国における唐から宋への様式変化に対応するものである。ことに独楽寺観音閣の大観音像,下華厳寺薄伽経蔵の釈迦・阿弥陀・薬師三尊像は力強い作風になり,奉国寺大雄殿脇侍菩薩立像は一転して優美ながら卑俗な作風を示す。また内モンゴル自治区巴林左旗の白塔子白塔の浮彫は,西方的な力強さをもつ。
絵画遺品としては,巴林左旗のワールインマンハにある聖宗の陵墓,永慶陵(慶陵。1031)の墓壁画が特筆される。四季山水図,人物の肖像等,内容が豊富であるだけではなく,唐の画風に依拠しながらも,契丹族特有の表現が見られ,ことにその人物図は質が高い。また遼寧省法庫葉茂台出土の山水図・花鳥図は,10世紀後半(959-986)の絹上にかかれた鑑賞用絵画で,中国の同時代の影響が色濃い。
金代の美術
黒竜江省にいた女真族完顔部の阿骨打(アクダ)は,12世紀の初め,女真族を統一し,遼にそむいて1115年(収国1)に金を建国し,遼軍を連破した。25年(天会3・遼の保大5・宋の宣和7)太宗はついにこれを滅ぼし,一転して宋を攻め,首都汴京を陥れて北宋を滅ぼし,27年(天会5・宋の靖康2)宋の道君皇帝(徽宗),欽宗,皇后等の宗室より百工技芸等までを拉致し,また宮中の古書珍画等をことごとく奪って北帰した。これよりのち金は,1234年(天興3・宋の端平1)モンゴルに滅ぼされるまで,中国北半を支配して南宋と対峙し,ことに世宗(在位1161-89)・章宗(在位1190-1208)の代にその文化は栄えた。
女真族はもともと半農半漁の森林民族であったが,遼を滅ぼしてよりのち,その五京を金の五京として中国式の都城を営み,1161年(正隆6)南京(河南省開封)を占領してよりはことに宋風建築の模倣が著しくなった。代表的な遺構として,山西省五台の仏光寺文殊殿,朔県の林衙崇福寺弥陀殿(1143),大同の普恩寺三聖殿(1143)等がある。
金の絵画は,北宋宮廷の所蔵品,画工等を略奪したため,また北宋時代に完成した華北山水画様式が流行した黄河流域を疆域に収めたため,北宋の絵画様式を色濃く継承した。この系統の代表的な遺品に李山筆《風雪松杉図巻》がある。皇帝にも徽宗の書画癖に習う者が出たが,章宗はその瘦金書を学び,宮廷コレクションの整備に努めた。また蘇軾(そしよく),黄庭堅など,北宋文人の書画を慕う者も多く,《幽竹枯槎図巻》の筆者,王庭筠(おうていいん)はその代表的な存在である。このように,金代の絵画は北宋の絵画様式をよく保存し,その結果,元代復古主義への仲介者の役を果たした。
→元代美術 →宋代美術
執筆者:嶋田 英誠
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