中央アジアのカラ・キタイ(西遼)の建国者。在位1132-43年。〈やりつたいせき〉とも呼ぶ。遼朝の王族の出身。12世紀初頭,遼が金の攻撃を受けて滅亡に瀕すると,200人のキタイ人とともに自立してモンゴリアに赴く。しかしここにも金の支配権が及び始めたため,1129年ころこの地を去って中央アジアに向かい,1132年にはベラサグンに姿を現し,この地の支配者であったカラ・ハーン朝の君主を退け,自らグル・ハーン(〈大ハーン〉)と号して新国家を建設。1141年にはセルジューク朝軍をカトワーンの野に撃破するなど,周辺の諸勢力を打破して東西トルキスタン全域にその支配権を確立した。自らは仏教徒として,中国風の生活を維持したが,その支配下のトルコ・イスラム世界の内部生活にはほとんど干渉しなかった。
執筆者:間野 英二
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1086?~1143
遼の王族,契丹(きつたん)人。カラキタイの建国者。称号はグル・ハン,中国名では天裕皇帝,廟号は徳宗。遼末に金の圧力が激しくなると,1124年モンゴル高原の可敦(かとん)城で王を称し,29年西ウイグル王国領内を西進した。バラサグンを攻め取り,1133年に都フス・オルダ(グズ・オルド)を建設した。カラハン朝領域の各地を征服して1141年頃にはブハラ,サマルカンドの中間地点まで到達し,皇帝を称した。東西トルキスタンの地域を服属させ,カラキタイの基礎を築いた。
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中央アジア、カラ・キタイ(西遼(せいりょう))の初代皇帝(在位1132~43)。字(あざな)は重徳、廟号(びょうごう)は徳宗。遼の太祖耶律阿保機(あぼき)の8世の子孫。1124年遼が金(きん)の攻撃を受けると、外モンゴル高原に北走し、のち西進して32年にチュー河畔のベラサグンで即位、延慶と建元し、グル・ハンと称し、天祐(てんゆう)皇帝と号した。41年セルジューク朝のスルタン、サンジャルの率いるイスラム連合軍をサマルカンド近辺で破り、トランスオクシアナに対するカラ・キタイの支配権を確立。のちホラズム(フワーリズム)・シャー朝を服属させた。
[護 雅夫]
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…西遼ともいう。中国の一部をも領有した遼王朝の王族の出身者である耶律大石(やりつだいせき)が1132年,東カラ・ハーン朝の首都ベラサグンを占領して建国。1141年には,西カラ・ハーン朝とセルジューク朝の連合軍をサマルカンドの近郊に撃破して西トルキスタンをも支配下に収めた。…
※「耶律大石」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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